パリクパパンは遠かった

疑り深いヤツになっちゃったのは~週刊誌のせいじゃないお前のせいでしょ~♪でも、真実を知ることが、全てじゃな~い♪

生活保護と自己責任論:生存権、社会の安定性、リバタリアンパターナリズム

 

 

生活保護を受けている人間を、失敗の自己責任だとして批判する風潮は根強い。しかしその割に、「では生活保護というものをこの社会から消してしまえばどうなるか」という視点で考える発言は驚くほど少ない。

 

このことは、自己責任論への批判的な言説が、その社会的意味づけとのバランスよりもむしろ、「ラクをしている人間が許しがたい」というフリーライダーに対する短絡的な怨嗟の要素が強いことを物語っている(ただし、フリーライドへの憤りは極めて普遍的なものであるがゆえに、多くの人間の感情を動かしやすい点にも留意しておく必要がある)。

 

本動画では、生活保護を無くしたとしても、結局他のところに社会的コストが生じるだけのことだ、という点を説明している(もちろん、鋭い人はこの「コスト」が国民皆保険などのシステムとも関連していることに気付き、ではそちらも含めての変更だったらどうなるか、といった発想もするだろうけど)。おそらく生活保護やその受給者に批判的な人たちは、「自己責任」の一言で対象を透明化することで切断処理してしまい、後は思考停止で何も考えないからスッキリするのかもしれないが、当然のことながら、そういった境遇に追い込まれた人々が、周囲に最も迷惑をかけない形で自裁のような方法を取るなどという根拠はどこにもないし、意識的にしろ無意識にしろそう考えているのだとしたら、それこそ「同質的集団で生活しているがゆえの甘えの極み」と言えるのではないだろうか(これは映画「爆弾」のレビューでも触れたことだ。なるほど、そうやって脱社会化した個人や集団が暴徒化したり凶悪な犯罪に手を染めた場合もありえると想定し、治安維持のためのシステム整備などを考える人もいるかもしれない。しかしえてして、そうしてかかる社会的・個人的コストというものを、生活保護というシステム維持のそれと比較対象しようという意見は、驚くほどに見かける機会がないのである)。

 

啓蒙思想の広がりや近代資本主義社会の中での過酷な生活の現実から生存権といった概念が成り立っていき、それが共産主義(国家)に対抗するために資本主義国家が行った社会保障の整備(ドイツ帝国におけるビスマルクが制定した国民年金はその嚆矢と言える)などで今日の姿がある訳だ。

 

そしてここが重要なのだが、弱者への「恩恵」というよりはむしろ、秩序維持など社会インフラ整備の一環として生存圏や生活保護などは拡張されていった点にも注意が必要である。

 

すなわち、共生のプラットフォームを整備することが、社会の安定性を高めることになり、それが公益に沿うから導入されたのであり、これを「可愛そうな人たちを救うため」という曖昧模糊とした救済の意識で捉えてしまうと、むしろ自己責任論で生活保護に反発する人間たちに燃料を投下するだけであり、よって社会の安定のための生活保護とその維持からすると、どのような仕組みが有効か・無効か、といったことは常に問われ続けていかねばならないだろう(前回触れた「社会維持のための移民政策の見直しや代替としての機械化・AI化」という観点からも、経済構造や労働市場の変化による短期的・中期的な失職リスクは低くないし、それは社会不安を惹起する。よって、ある程度の社会的安定が認識された上で社会の構造転換を可能にするには、セーフティーネットの充実とそのスティグマを取り払うことの両方が必要不可欠となる)。

 

つまり、その仕組みの維持のためにも、不正受給については厳しく追及せざるをえないし(でなければ生活保護受給への反発拡大を招き、共生のプラットフォームを大きく毀損しかねない)、よって生活保護支給のあり方についても、しばしば言われるフードスタンプなど含め、その手法は継続的な改善が求められるのである(私はよく社会レベルで必要なものとしてなるだけ残酷さを避けるリベラリズムと並行してリバタリアンパターナリズムを挙げるが、それは例えば喫煙の有害性を訴えて啓蒙するのではなく、「そもそもタバコ1箱の値段を1000円に値上げし購入自体を困難にすることでより望ましい方法にコントロールする」といった環境整備型の社会運営のスタンスである)。

 

くり返しになるが、ここで述べていることはいかなる生活保護も全面的に認めるべしという話ではないし、また現状のシステムが理想的であるという話でも全くない。あくまで、共生の作法として生まれた生存権やその一手段としての生活保護を理解した上で、その現実的な、より良い運用方法を模索していくべきだということである。

 

以上。

 

 

【余談】

1848年の近代市民社会成立以降は概ね社会保障の拡充が進んでいき、イギリスでは「ゆりかごから墓場まで」と言われる状態まで生み出された。しかし1970年代にはそのような社会方針も崩壊し、1980年代からはサッチャリズムやレーガノミクスといった新自由主義の時代が到来する。しかしそれにも様々な批判が生じた後で、2000年代からはイギリスのブレア政権が主張したような第3の道(福祉国家でも新自由主義でもないルートを目指す)と呼ばれるスタンスが模索されるようになったのである。

 

近代の欧米における福祉拡充の背景には、列強が広大な植民地を所有し、そこからの収奪を元に(共産主義の広がりや共産主義国家の成立に対抗して)本国の民衆の生活を充実させていったという背景があり、ゆえに第二次大戦後の1950年~1960年代にアジア・アフリカ諸国の独立で欧米が植民地=収奪先を失っていった結果、もはやかつてのような福祉社会の維持は不可能になったのであった。

 

もちろん、そこには1973年と1979年の二度に渡るオイルショックや、国によっては「イギリス病」と言われるような経済成長の停滞など他にも様々な背景はあるが、かつてのような高福祉国家を模範とした社会政策を求めることはもはや不可能・不適切である点も押さえておく必要がある。

問題にすべきは、「移民そのもの」ではなく、「移民政策」の方である:ダンピングと代替的労働力の話

 

 

 

 

(安い)労働力を求めていたら、やってきたのは「人間」だった…というのは移民問題についてよく言われる表現だが、現在様々な先進国が移民問題を抱えており、つい先日ドイツ東部の州でAfDが投票で第一党になったと話題にもなっている(ただし過半数ではないため連立政権で議会を運営するのと、南部のバイエルンなどとは違った背景で保守的・右派的な東部州の選挙結果であったことから、これがドイツ全土の動きにどの程度影響があるかは意見が分かれている)。

 

日本においても、技能実習制度の問題や、川口のクルド人問題などを含め、移民については様々取り上げられているが、注意しなければならないのは、根幹となる国家や地方政府の政策についてまずは問題にすべきであり、個別の現象としての移民の動向やそれに対するヘイトに安易に走ることには慎重になる必要がある、という点だろう(もちろん、不法行為は「法の下の平等」という観点でしっかり取り締まらなければならないのは言うまでもない)。

 

というわけで、ただ日本の話にフォーカスするといつもの不毛な二項図式(日本=ダメVS日本=サイコー)に陥る可能性があるので、他国の事例を紹介しており、かつ「移民=ダメ」ということではなく、実態としてどのような事象が起こって来たのかを紹介している動画を掲載した。

 

先に触れた技能実習制度が典型的だが、先進国が欲しているのは要するに安い労働力である。すなわち、権利意識が高まり、人件費も上がっている社会の中で、(介護職が典型的だが)国内の人間たちが忌避する+コストがかかる仕事を、誰にアウトソーシングするかという話であり、そこに移民があてこまれているわけである(その意味では、よく言われる「移民が仕事を奪う」という認識はいささかミスリーディングなものと言える)。

 

要するに重要なのは、「移民が増える=コスモポリタンで素晴らしい」というようなお花畑的発想ではなく、経済的理由で「移民」という名の安い労働力にニーズを持つ企業群があって、それを政府が補助金などで支援しているのが現状ということだ(もちろんこれはひとり日本のような受け入れ側だけの話ではなく、ヴェトナムのように労働力を送り出す国の側の政策だったりもする点には注意が必要だが)。

 

で、その結果として安く使役できる労働力が大量に流入することで、その仕事やその業界は安いまま回せてしまう。すると当然、その世界では経済合理的に値段を上げるインセンティブがないので(コストプッシュ型のインフレなどもちろん外的要因はあるが)、給与は安いまま据え置きになる。こうして、やってくる労働者は厳しい条件での労働が続き(労働環境が改善されず)、しかもその業界では国内の人間が働こうとしないため高い割合を移民が占める状況が固定化され、かくて移民が国内に定着する(せざるをえない)という状況が出来上がるわけである。

 

しかし、技能実習制度における労働者の扱いでも明らかになったように、奴隷的労働は逃亡などによる社会治安の悪化を招くばかりか、ヘイトを抱えた外国人労働者たちが多数出たことによる帰国組の反日感情の醸成にも繋がっているし、またなし崩し的な移民(外国人労働者)の増加は、それを受け入れる仕組みの整っていない社会に対して歪みを生じさせ、そのコストを払うのは地域住民なのである。

 

さらに、来年GDP6位に転落する背景でもあるように、円安は続いており、外国人労働者が日本に来るうま味はどんどん減ってきている(まあ現状は労働力の中心が中国人→ヴェトナム人→ミャンマーやネパールの人々と変化する方向で一応まかなえてはいるが)。

 

日本の労働力はこれからさらに不足しておくことは今から明らかになっているにもかかわらず、それを安定的に受け入れる社会的・経済的仕組みは全く整っていないし、整う見通しもない。要するに、今のような外国人労働力に頼る仕組みは、他国の事例を見ても、地獄へ通ずる道でしかないと言えるろう。

 

とするならいかにすべきか。

 

 

 

 

昨今では飲食店のタッチパネルによる注文への切り替えなども進んでいるが、要するに機械への労働力転嫁を進めることに注力すべきということである。誤解を恐れず、あえて単純化すればこういう図式だ。

 

【現在】

・コストを上げないように安い外国人労働者でまかなおうとする

・同じ理由で退職した高齢者を活用しようとする

・その業界は低賃金のまま→移民依存が続く

・しかも政府はそれに補助金を出している

・業界の構造転換が遅々として進まず、移民依存から抜け出せない

・ただし低コストのサービスを享受はしやすい構造が維持

・だから外国人旅行者にとっては日本は低コスト+高品質サービスの国になる

 

【変化の方針】

・先の配膳猫の動画でも触れたように、労働力を機械やAIで代替する方針に重点

・そこに政府の補助金などを厚めに投下し、企業側のインセンティブを高める

・外国人労働者採用の補助金は大きく下げる(最終的には打ち切り)

・こうして労働力の不足や、高齢労働者の増加という事態を移民ではなく機械化で対応

・そこに対応しきれない中小企業は当然それなりの数出てくると予測

・該当企業は倒産していただく(会社合併などノウハウ継承には一定の留意が必要)

・当然そこへの反発は予測されるので、倒産後の社会的手当についても議論が必要

・政策転換による短期・中期的なコスト上昇&出費増大は必須

・よって社会の大方針として、次善の周知徹底も重要(移民ヘイトを垂れ流しながら、コスト上昇が起こり出すと途端に文句言い始める連中は絶対にいるので)

・生活周りのコスト上昇は、観光客の減少にも繋がる可能性は十分ある

・そこは短期的影響として腹を括った上で、それでも来てもらえる魅力を伝える・整備することが重要

 

さらにまとめるなら、「現状へのなし崩し的適応は害悪だと理解する」・「社会の大方針をしっかりと定める」・「転換には痛みがつきものであることも含めて伝える」・「それへの近視眼的な反発で改革が頓挫しないように、それへの社会的手当ても含めて提示」というのが、今後日本も含めた先進国が進むべき道であるように思われる(移民に対する肯定的意見であれ否定的意見であれ、痛みを引き受ける覚悟もないのにノリだけで適当なことを垂れ流しているケースが余りにも多すぎるのではないか)。当たり前のことだが、一般市民にとっては50年後・100年後より明日の生活なので、その目線にも立った上での方針提示が不可欠であるし、その時に「良いとこ取りはできない」という覚悟を持ってもらうことは(ユートピアはこの世のどこにも存在しない)、あらかじめ含めおくべきだろう。

 

どうも移民にまつわる問題は、「移民ヘイト」VS「移民人権擁護派」のような極めて不毛な二項対立ばかりが前面に出がちだが、そこから距離を取るためにも、他国の事例を提示・参照しつつ、メリット・デメリットも考慮した上での方針決定が必要だと思われる。そしてその中で、単にお花畑的な「ノリ」だけで発言していた人間たちと、そうでない人間たちが自然に峻別されてもくるのではないだろうか。

おや、マルフォイの様子が…

 

 

 

 

ハリポタミリしら勢ワイ、本筋がマルフォイ×ポッターの百合展開と勘違いす😍

 

こりゃあホグワーツのビブリオが、四庫全書もビックリのレベルで埋め尽くされる日も遠くないなw

「知識」と「思考力」の相関:「詰め込み教育」VS「探究学習」という二項思考の不毛

 

 

 

 

問1
19世紀末のインドでは大規模な飢饉が起こったが、それにもかかわらず商品作物の生産が維持され、多くの餓死者を出す事態となった。それはなぜか。

 

問2
南北戦争の中では北部のリンカン大統領によって奴隷解放宣言が出された。その背景について答えよ。

 

 

ある程度有名な話なので先に答えを言っておくと、問1は当時のインドはイギリスの植民地となっており、帝国主義の常として独占資本主義の歯車の中にモノカルチャー経済という形で組み込まれており、現地の窮乏への対策よりこちらが優先されたためだ(この辺りはベルギー独立などで経済的打撃を受けたオランダが、オランダ領東インドに強制栽培制度を施行して植民地から無理やり収益を吸い上げて本国を立て直したことなども想起したい)。

 

問2は南北戦争が北部=商工業中心(イギリスと産業構造が近く対立→保護貿易)、南部=農業中心で(イギリスの軽工業にどんどん綿花を輸出したい!→自由貿易)、それにより奴隷を使役する必要性の有無と、旧宗主国イギリスとの経済的利害関係が真逆であったこと、イギリス本国ではすでに19世初頭で奴隷貿易が廃止されるなど、ヨーロッパに自由主義の風潮が広がっていたことを知っていれば、答えは容易だ。すなわち、北部はヨーロッパのスタンダードである奴隷禁止の流れに則り、ゆえにそれと反する南部をイギリスが支援することを難しくするための外交戦略だったのである(他にも様々な要素があり、奴隷廃止=人権的側面だけではなかったことは南部に差別構造が残り、また解放奴隷たちもシェアクロッパーという厳しい立場に置かれたわけで、ゆえに100年も経った後に公民権運動が起こり、1965年には公民権法が制定されることとなる)。

 

 

・・・というわけでいきなり問いから始めてみたわけだが、この二つで言いたいのは、思考力は知識から独立して存在する訳ではないし、また知識もそれがどういった要素に結びつくかを意識して整理していかなければ意味がないという話だ(昔2008年の記事で、知識と思考力を図形の底辺と高さに喩えたことがあるが、この発想は全く変わっていない)。

 

というのも、問1はイギリスの植民地とその政策という視点がなければ、「論理的」に思考して当時のインド政府に何らかの問題があったという方向性になるだろう。また、問2は戦争の背景(経済構造の対立)を知らなければ、ありがちな錯誤として、単に人権的な問題意識から(つまり奴隷が可哀そうだから)解放してあげたのだ、という理解をしてしまうかもしれない。

 

重要なことは、今述べたような錯誤が、「論理的」に生まれるということである。すなわち、「思考力」なる言葉を使えばいかにも高尚なことをやっているように感じるかもしれないが、当然そこにはその人がもつ知識や経験、感性が影響してくるわけで、その意識なしにただ思考力だの探究学習だのを掲げてみたところで、ただ頭でっかちな人間が一人できあがるだけであろう(こうして陰謀論の免疫を持たない人間がまた量産されていくわけである。乏しい知識と思考力への過度な傾倒という結合こそ、世界を過剰に単純化・体系化した陰謀論と最も相性がよいからである)。

 

では、やはり知識の方が大事なのか?「詰め込み教育」の方が実は正しいのか?といえば、それも単純すぎる話だ。 「詰め込み教育」なる言葉自体がいささか手垢がついており、そこに様々な人間がそれぞれの勝手なイメージで語っているという問題もあるが、少なくとも「ただ知識を詰め込むだけの教育には弊害が多い」という点はかつての共通理解だったと思われる。だとするなら、その見解は妥当だ。

 

その理由をいくつか挙げておきたい。
例えば国王の名前で「ヘンリー」と「アンリ」と聞いて、それをただカタカナで記号化して覚えた人間は、そもそも二つの根っこが同じであることすら理解していない(というか11世紀のノルマンコンクエストによりフランス語が宮廷へ大量に流入したことが英語の語彙の多層化を促し、それが学習者の頭を悩ませる英語の発音の複雑さへと繋がっている、という点をどれだけの世界史選択者や英語学習者が理解しているのだろうか)。それらはカタナカで丸呑みした、すなわち独立・記号化した人名なのである。だから、「ジェイコブ」と「ヤコブ」も別物だし、まして「サンチャゴ・ベルナベウ」と聞いて、そこに「ヤコブ」が含まれていることなど思いもよらないのだ(なお、この名前はレアル・マドリードの会長に由来するが、さらにその由来となる聖ヤコブ、すなわちカトリック圏における聖者崇拝については、シチリア旅行の記事でいずれ触れるかもしれない)。

 

あるいは「イブラーヒーム」というアラビア語が「アブラハム」と同じだと知っていれば、その関係性の深さがセム的一神教の繋がりを考える契機にもなるだろうが(ボッカチオ『デカメロン』の第3話に出てくる3つの指輪の寓話を想起)、そのようなよすがはほとんどの場合奪われているのである(16世紀オスマン帝国の著名なスルタン、スレイマン1世の由来がソロモンとか聞くと、いかに影響が大きいかはわかりそうなものだが)。

 

あるいは別の視点で言うと、つい先日書いた古典教育の記事でも述べたが、「はしたなし」を、実は現代語の意味とは違い「中途半端」って意味で引っ掛けに気を付けろ!と教えるのか、あるいは「はしたなし」は漢字にすると「端なし」だから、「端がない=中途半端」なんだよ、と教えるかで受け手の印象は全く変わって来るはずだ。前者は単なる丸暗記かつテストで点を取るためのテクニックに過ぎないが、後者であれば「はした」=「端」という理解から現代語の「端金(はしたがね)」などにもつなげることができる。言い換えれば、平仮名(古語)を記号的に丸暗記するのではなく、「漢字による内容理解」というスキーマを古語の習得にも活かし、それを現代語の語彙増強とも繋げるような教授法は「詰め込み」=知識の学習でも十分可能という話である(余談だが、例えば漢字の読みの多様さ一つとっても英語の発音ルールの多様さの比ではなく、英語の発音の不規則さに文句を言っている日本人は、まず母国のカオスっぷりをよく知りなさいという話であるw)。

 

このように、「知識を教える」と一言で言っても、それをどういう角度で提示するかで受け手の印象やその後の学び方は大きく変わるものだ。かかる点を無視して、あたかも「アジアの伝統的な詰め込み教育=時代遅れ」⇔「欧米的な思考力を延ばす教育=最先端」というような二項思考(そして後者の幻想を引き継いだ典型がフィンランド教育)で考え、後者に舵を切ることの浅はかさが探究学習=意識高い生徒だけのものという点だけでなく、現在共通テストの形式に対する非難といった形で噴出してきていると言えるのではないだろうか(ちなみにかつてPISAトップだったフィンランドは、現在凋落傾向にあって10位よる少し上くらいだ。これはまた少し別の問題が絡んでくるのだが、そもそも自由・自主性=絶対善のような発想は信仰と同じだ。というのも、放任していれば生徒は自分のやりたいものばかりをやる方向に行きがちで、群として見た場合にそのパフォーマンスが不安定になるのは、別に不思議なことでも何でもないのである)。

 

今一度かつての教育形態を振り返り、そこに回帰するのでもなければ、それをただ否定するのでもなく、その効果がどのようなものであったかを改めて振り返り、今の探究学習とも絡めながら、批判的に発展させていくことが求められている。

 

 

 

【補足】

今述べたような詰め込み教育(自己肯定)と探究学習(自己否定)という二項思考は、実は極めて日本に伝統的なものである。すなわち、仏教的世界観では「お辺土」、中華思想なら「東夷」、欧米的世界観からは極東・黄禍思想のように、先進地域に対する「悪い場所」として自らを定義し(定義され)、自己を否定・解体しつつ文化や技術を摂取していくというベクトルが長らく存在していた。一方、自己肯定の形態はいわゆる「神国思想」がその典型だが、これは中世後期にその萌芽が見られ、江戸近世には吉田神道や国学、水戸学のような形で花開いたのであった。

 

かかる思考形態は、現在でも「出羽守」だとか「ネトウヨ」(日本スゲー論的なもの)と呼びならされるクラスターを極端なものとして、より中道的な人の中にも継承されているものではないかと考えている(これは例えば、日本人が自らの宗教を考える時、その参照点はあくまで「欧米」であって、アジアは完全に無視されている点などにも見られると言ってよい。つまり日本人の中では、無意識の領域でさえ今もなお脱亜入欧的発想が支配的なのである)。

 

重要なことは、こういった思想的パターンを踏まえた上で、極端な自己肯定も自己否定もコインの裏表でしかないことを強く自覚しつつ、是々非々で物事を考えていくことだと思われる。

太陽を盗んだ男、再び

 

 

かつてこの映画を見た時、社会全体をシラケが支配し、もはや「革命」なるものは起き得ない状況で、それでも国家をハックした男の茫漠とした狂気を何て巧みに描き出しているのか!と驚いたものだ(発表された1979年は連合赤軍の悲劇と狂気が全国に放送されてから約5年が経ち、政治的なるものへの忌避感から「ノンポリ」なる言葉が生まれ、また第一次オイルショックの影響からそれまでの経済成長は望めない社会状況だった)。

 

わかりやすいカタルシスがある訳でもない本作は、興行的には失敗し、長谷川和彦の最初にして最後の作品となったが、それでもこの作品が描写するイデオロギーのなさと不気味なハイテンションの融合は、見事に歴史へとその名を刻んだ(ピカレスクロマンでもあるが、それにしては主人公があまりに空虚すぎることは、テロールを仕掛ける時の中身の無さからも十分にうかがえる)。

 

今改めてこれを目にした時、どのような感情が沸き起こるのか予想もつかないが、とりあえず時間を作ってじっくり見たいものである。

現在の古典教育の問題点について:原文講読の効果、試験形式との乖離、唱歌と古典文法

これまで、古典教育を巡る言説について、「その肯定派はただ理念を語り、実態を見ない。逆に否定派は、実態の方にばかり着目し、理念に目を向けようとしない」と述べてきた。ゆえに、その議論は常に不毛な物別れに終わるのだ、と。今回はその一例として、肯定派の意見と実態の乖離について取り上げてみることとしたい。

 

古典教育を肯定する意見は様々あるが、特にそれを原文で学ぶべき理由として、「古典のリズムを体感することの重要性」が主張されることがある。

 

なるほど確かに、『枕草子』冒頭の「春はあけぼの」然り、『方丈記』冒頭の『行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず』然り、その独特なリズム感は現代日本語を読んでいる時とはまた違ったインパクトを読み手に与えうる。また、音楽も含めた日本語のリズムとして5・7・5が相性がよい、という主張がなされることもあるが、仮にそうであるなら短歌や俳句といったものを学ぶことには意義があるだろう(ただし短歌や俳句の場合、なぜ現代日本語で学ぶのではだめなのか、という疑問が生じるが)。

 

このように、その主張について一定の興味を持つのだが、私はこの意見によって現在の古典教育が肯定されうるとは全く思わない。なぜだろうか?

 

その理由は、この主張が古典教育の実情をほとんど(あるいは全く)踏まえていないように思われるからである。例えば、あなたが古典教育を受けてくる中で、音声やリズムの体感・体得が重要であるという主張や、あるいはそれを基にした教授法・学習法にどれだけ出会っただろうか?なるほど英語学習であれば、多少の賛否はあれど、おおむね文章を音読する行為は重要だと言われている。しかし古典教育に関しては、それを強調されることもなければ、音声やリズムについて深く教わる機会はない(例えば「母」は中世なら「ふぁふぁ」という発音になるが、仮に音声やリズムが重要だとすれば、こういった差異の理解は必須であるはずだ。しかし、現代日本語との発音の違いは旧ひらがな以外で触れられることはまずないし、その旧ひらがなでさえ、正確な発音がどのようなものであったかとか、それがどのようにして消えていったかなどを教えるような仕組みになっていない。これは英語の授業がローマ字発音やカタカナ英語=ありがちな誤解を矯正することに意を用いていることと比較すると、その違いは顕著であろう)。

 

その理由は様々考えられるが、おそらく最も大きなものの一つは、「大学入試でも学校のテストでも、発声や聴解のスキルは一切問われない」からだと思われる。要するに、それをどれだけ勉強しても得点にはならないのだから、受け手となる高校生にとってはそれを掘り下げるインセンティブがないし、教師の側もそれを重視したところでその定着を数値化して図る方法がないため、授業として組み込みにくいのである(いわゆる「探究学習」に向けて新課程が導入された時、文科省が共通テストというゴールの問題や形式をいじることで、高校での学びの形式変化にインセンティブを与えたことを想起したい。言い換えれば、古典は少なくとも目に見える形でその音声やリズムの要素が重視されることは現在においても行われていないのである)。

 

このことは、先に挙げた英語において、共通テストや学校の定期試験などでリスニングがあり、英検やTOEFLではスピーキングも課されるのに対し、古典教育にはそのいずれも存在しないことから、両者が重視されていないのは明白である。さらに言えば、そのような実態に対して、大々的に強い異議申し立てが行われたことは管見の限り存在しない。それはつまり、「古典教育を原文で行う事には、古典独特のリズムを体得する上でメリットがあるからだ」といった主張が極めてマイノリティのものでしかないか、あるいはそういう考えの人々は一定数存在するけれども、教育の実態として、それを体得させるような、あるいはそこに強いインセンティブが働くようなものにはなっていないことを知らないし、知ろうともしていないことを如実に表しているのではないだろうか(なお、音声やリズムの要素が全くもって授業で重視されていないのは、先述した古文より漢文の方が甚だしく、それは漢詩の領域において最も顕著になる。そもそも五言絶句にせよ七言律詩にせよ、元の発音に忠実に詠じなければ特に置き字などは何の意味もないし、ましてそれを単に意味理解のために書き下ししている現状は、音声やリズムについて注意を払っているとは到底言えないであろう)。

 

よって、いくら古典教育を肯定する視点として音声やリズムの側面を強調したとしても、それが重要な意味を持つものとして生徒達には提示されていない限り、何ら説得力のあるものにはならないと言っておきたい(つまり、古典教育に懐疑的・否定的意見に対する反論にならない)。

 

ちなみに、単に批判しているだけに思われるかもしれないので、一つ代案を出しておきたい(ただし、あくまで伝聞情報なので一部正確ではないかもしれない点は付け加えておく)。日本の女子高として学力的にはトップと言える「桜蔭」という学校がある。聞くところによれば、この学校では中学生で古典を学んでいくにあたり、導入として古い唱歌を題材に用いているそうなのだ。

 

これは非常に興味深い取り組みだ。唱歌と言えば、「仰げば尊し」や「ふるさと」などを挙げることができるが、前者であれば、「今こそわかれめ」、後者なら「兎追いしかの山」といった歌詞は、ただ音で聞いているだけでは「別れ目(縁の切れ目的なもの??)」、「兎おいしい(狩りでもしていた!?)」のような勘違いもしかねない箇所である。しかし、そういう意味ではもちろんない。では、この「め」は一体何なのか?あるいは「し」はどういう意味なのか?という疑問が出てくるであろう(なお、「め」は係助詞「こそ」により已然形になった勧誘の「む」、「し」は直接過去「き」の連体形である)。

 

このような教授法がなぜ効果的かと言えば、触れたことはあっても正確には理解していない(かもしれない)ものを題材にし、それをより深く理解するための出発点として古文文法の学びがあるからだ。人間が物事に強い興味を持つ典型例の一つに、「既知の情報を土台にしつつ、そこに少しだけ未知の情報を付け加える」というものがあるが、今述べた例はまさにそのような優れた手法と言えるだろう(他にも、音声を元にするのとは外れるが、例えば助動詞「る・らる」の自発という意味を教える現代語の「先が思いやられる」を例示するとか、あるいは「はしたなし」を説明する時に漢字をあてて「端なし」とし、「端金(はしたがね)」などを例に出しながら「端がない=端までいかない=中途半端」といった教え方もあるだろう)。

 

以前、古典教育の入口として、私は平安時代の文章から始めるのではなく、むしろ近代文語文から導入するべきだと書いたことがある。その理由は、現代文のようで現代文ではない(読めそうで読めない・読みにくい)要素をもった文章にあたり、その要因が漢文書き下しの形式にあることを昔の漢文と対比しながら理解し、そこから古典の学習に遡行していくというスタイルが、古典(教育)を単なる「道具」としないために重要だと考えるからである。

 

これと発想法は似ているが、唱歌の活用というのは近代文語文より生徒にとって馴染みが深く、桜蔭のようなレベルの生徒でなくても取っつきやすい上に、わかりにくい箇所が限定的であるために、学びの箇所に意識を集中させやすい点でいっそう優れている。加えて、音から入るために、(五感に訴えかけるという意味で)ただ読むよりも定着が容易となるものと思われる。

 

以上、「音楽」と「古典」という科目的なセクショナリズムさえ取り払ってしまうならば、非常に有効な古典学習法の一つということで紹介してみた。なお、古典を音楽を通して学ぶという主張に違和感を覚える向きもあるかもしれないので、類似のケースとして音楽を通して歴史を考えるというアプローチを紹介しておきたい。2025年2月の東大日本史では、近代日本における唱歌を題材とした論述が出題されており、そこでは明治新政府による西欧文化吸収の苦闘、あるいは唱歌がナショナリズム醸成のために果たした役割が問われていた。昨今の日本教育では科目横断的な知が重視されるようになってきているが、「音楽」もまた単体では完結せず、歴史や政治経済にも深く関わっているのは当然であり、古典が音楽を通して学ぶのは邪道どころかむしろ有効な手法であり、逆に音楽の授業で古典や歴史を学ぶことがあって何の問題があるのか、と言っておきたい。

 

ちなみに音楽の授業で歴史を扱うなら、学校でよく取り上げらえるスメタナの「モルダウ」やシューベルトの「魔王」を取り上げ、「彼らがなぜそのようなテーマを取り上げたのか?」を問えばよい。するとそこからは、19世紀のロマン主義やナショナリズムの話が出てきて、それは当然前世紀のフランス革命と、それがナポレオンによって各国に波及していった歴史が言及されるはずである。

 

このように、科目を横断した学びはいくらでも工夫可能であるし、むしろやらない意味がわからないとさえ言える。それが教師の専門領域から外れるためやれないというのであれば、そういったプラスαの知識部分はAI生成の動画を流すなど工夫すればよいだろう。ちなみに、日本のPISA復権とフィンランドの凋落もあって、日本の詰め込み教育の有効性を謳う主張を最近よく耳にするが、それが二項思考的にかつての日本の教授法を全肯定することへと繋がらないように注意が必要だ。というのも、同じ知識を詰め込むにしても、それをどのようなアプローチで行うことが有効であるかは、いくらでも工夫・改善の余地があるからだ(これは前に取り上げた「お辺土」と「神国思想」という、日本・日本人の自意識を巡る両極端な思考の不毛さを想起したい。この場合前者は欧米的な学び方や探究学習、後者は詰め込み学習にあたる。どちらか一方に正しさがあるのではなく、是々非々で物事を見ていくべきという話だ)。

 

話を戻して、最後にまとめを書いておきたい。

・古典を原文で学ぶことにはリズムの体得などの点で重要とする主張がある

・しかし、現在(実態)の古典教育は全くそのようなものになっていない

・これは効果測定としての各種試験で一切問われない点からもわかる

・加えて、そういう教育実態に対する異議申し立てはなされていない

・つまり音声やリズムを重視する人間の意見は実態を無視した空理空論である

・仮に音声からの学びを重視するなら、桜蔭が実施しているという唱歌の導入は効果的

・理由は、「親しみがある・既知と未知の接続・複数のチャンネルによる知覚」の3つ

・現在科目横断的な知が重視されるようになってきており、その点でも興味深い教授法

 

以上である。古典教育肯定派の意見は、理論だけに着目すれば興味深いものもあるが、実態との乖離を全く見ないがゆえに空理空論でしかないように思われる。そして彼・彼女らがその現実を理解していないのは、古典教育に否定的な見解に対し、ただ「教養」「教養」と馬鹿の一つ覚えのように繰り返す様が最も端的に表している。さらに救いがたいのは、その人たちは自分から積極的に古典教育の意義やその有効な学習法を発信するのではなく、批判や否定に対し始めて重い腰を上げるかのように応答しているだけであり、「今この世界において古典教育の価値が問われるのは当然である」という危機感が徹底的に欠落している点であろう(世界の流れの速さ、経済的衰退、AIの隆盛など、古典教育の価値を疑う意識は高まって当然の状況である)。これはすなわち、その人たちが単なる権威主義化して思考停止しており、にもかかわらずそのことに全く気付いていないことを象徴しているのである。かかる状態であれば、仮に制度的惰性で公教育における古典学習が必修として残ったとて、その目的とするものは極めてレアケースでしか達成されないし、そのような教育に対して縮小・消滅の声がどんどん強くなっていくのは極めて当然のことと言えるのである。

 

以上。

 

 

【余談】

なお、古典教育肯定派の中には、音声やリズムを別に重視しないという人たちも当然いるだろう。その典型は、厳密な品詞分解などによる翻訳的理解能力の涵養を第一義に捉えるようなスタンスだろうが(これは日本の英語教育が論文読解を目的にしておりコミュニケーションと乖離していても構わないという理由付けにもよく用いられる)、それなら今最も向き合わなければならないのは、「AIによる翻訳代行の飛躍的なカジュアル化が達成されてきている現在、そのスキルの習得に時間を割くことにどのような価値があるのか?」という問いであろう。これと真摯に向き合った上で、説得力ある主張をできないのであれば、そのようなスキル取得はほとんど趣味の問題であって(やりたければ私教育や個人でどうぞ)、ゆえに公教育という大きなレベルでは、時勢の流れに飲み込まれて終わりだと言っておきたい。