これまで、古典教育を巡る言説について、「その肯定派はただ理念を語り、実態を見ない。逆に否定派は、実態の方にばかり着目し、理念に目を向けようとしない」と述べてきた。ゆえに、その議論は常に不毛な物別れに終わるのだ、と。今回はその一例として、肯定派の意見と実態の乖離について取り上げてみることとしたい。
古典教育を肯定する意見は様々あるが、特にそれを原文で学ぶべき理由として、「古典のリズムを体感することの重要性」が主張されることがある。
なるほど確かに、『枕草子』冒頭の「春はあけぼの」然り、『方丈記』冒頭の『行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず』然り、その独特なリズム感は現代日本語を読んでいる時とはまた違ったインパクトを読み手に与えうる。また、音楽も含めた日本語のリズムとして5・7・5が相性がよい、という主張がなされることもあるが、仮にそうであるなら短歌や俳句といったものを学ぶことには意義があるだろう(ただし短歌や俳句の場合、なぜ現代日本語で学ぶのではだめなのか、という疑問が生じるが)。
このように、その主張について一定の興味を持つのだが、私はこの意見によって現在の古典教育が肯定されうるとは全く思わない。なぜだろうか?
その理由は、この主張が古典教育の実情をほとんど(あるいは全く)踏まえていないように思われるからである。例えば、あなたが古典教育を受けてくる中で、音声やリズムの体感・体得が重要であるという主張や、あるいはそれを基にした教授法・学習法にどれだけ出会っただろうか?なるほど英語学習であれば、多少の賛否はあれど、おおむね文章を音読する行為は重要だと言われている。しかし古典教育に関しては、それを強調されることもなければ、音声やリズムについて深く教わる機会はない(例えば「母」は中世なら「ふぁふぁ」という発音になるが、仮に音声やリズムが重要だとすれば、こういった差異の理解は必須であるはずだ。しかし、現代日本語との発音の違いは旧ひらがな以外で触れられることはまずないし、その旧ひらがなでさえ、正確な発音がどのようなものであったかとか、それがどのようにして消えていったかなどを教えるような仕組みになっていない。これは英語の授業がローマ字発音やカタカナ英語=ありがちな誤解を矯正することに意を用いていることと比較すると、その違いは顕著であろう)。
その理由は様々考えられるが、おそらく最も大きなものの一つは、「大学入試でも学校のテストでも、発声や聴解のスキルは一切問われない」からだと思われる。要するに、それをどれだけ勉強しても得点にはならないのだから、受け手となる高校生にとってはそれを掘り下げるインセンティブがないし、教師の側もそれを重視したところでその定着を数値化して図る方法がないため、授業として組み込みにくいのである(いわゆる「探究学習」に向けて新課程が導入された時、文科省が共通テストというゴールの問題や形式をいじることで、高校での学びの形式変化にインセンティブを与えたことを想起したい。言い換えれば、古典は少なくとも目に見える形でその音声やリズムの要素が重視されることは現在においても行われていないのである)。
このことは、先に挙げた英語において、共通テストや学校の定期試験などでリスニングがあり、英検やTOEFLではスピーキングも課されるのに対し、古典教育にはそのいずれも存在しないことから、両者が重視されていないのは明白である。さらに言えば、そのような実態に対して、大々的に強い異議申し立てが行われたことは管見の限り存在しない。それはつまり、「古典教育を原文で行う事には、古典独特のリズムを体得する上でメリットがあるからだ」といった主張が極めてマイノリティのものでしかないか、あるいはそういう考えの人々は一定数存在するけれども、教育の実態として、それを体得させるような、あるいはそこに強いインセンティブが働くようなものにはなっていないことを知らないし、知ろうともしていないことを如実に表しているのではないだろうか(なお、音声やリズムの要素が全くもって授業で重視されていないのは、先述した古文より漢文の方が甚だしく、それは漢詩の領域において最も顕著になる。そもそも五言絶句にせよ七言律詩にせよ、元の発音に忠実に詠じなければ特に置き字などは何の意味もないし、ましてそれを単に意味理解のために書き下ししている現状は、音声やリズムについて注意を払っているとは到底言えないであろう)。
よって、いくら古典教育を肯定する視点として音声やリズムの側面を強調したとしても、それが重要な意味を持つものとして生徒達には提示されていない限り、何ら説得力のあるものにはならないと言っておきたい(つまり、古典教育に懐疑的・否定的意見に対する反論にならない)。
ちなみに、単に批判しているだけに思われるかもしれないので、一つ代案を出しておきたい(ただし、あくまで伝聞情報なので一部正確ではないかもしれない点は付け加えておく)。日本の女子高として学力的にはトップと言える「桜蔭」という学校がある。聞くところによれば、この学校では中学生で古典を学んでいくにあたり、導入として古い唱歌を題材に用いているそうなのだ。
これは非常に興味深い取り組みだ。唱歌と言えば、「仰げば尊し」や「ふるさと」などを挙げることができるが、前者であれば、「今こそわかれめ」、後者なら「兎追いしかの山」といった歌詞は、ただ音で聞いているだけでは「別れ目(縁の切れ目的なもの??)」、「兎おいしい(狩りでもしていた!?)」のような勘違いもしかねない箇所である。しかし、そういう意味ではもちろんない。では、この「め」は一体何なのか?あるいは「し」はどういう意味なのか?という疑問が出てくるであろう(なお、「め」は係助詞「こそ」により已然形になった勧誘の「む」、「し」は直接過去「き」の連体形である)。
このような教授法がなぜ効果的かと言えば、触れたことはあっても正確には理解していない(かもしれない)ものを題材にし、それをより深く理解するための出発点として古文文法の学びがあるからだ。人間が物事に強い興味を持つ典型例の一つに、「既知の情報を土台にしつつ、そこに少しだけ未知の情報を付け加える」というものがあるが、今述べた例はまさにそのような優れた手法と言えるだろう(他にも、音声を元にするのとは外れるが、例えば助動詞「る・らる」の自発という意味を教える現代語の「先が思いやられる」を例示するとか、あるいは「はしたなし」を説明する時に漢字をあてて「端なし」とし、「端金(はしたがね)」などを例に出しながら「端がない=端までいかない=中途半端」といった教え方もあるだろう)。
以前、古典教育の入口として、私は平安時代の文章から始めるのではなく、むしろ近代文語文から導入するべきだと書いたことがある。その理由は、現代文のようで現代文ではない(読めそうで読めない・読みにくい)要素をもった文章にあたり、その要因が漢文書き下しの形式にあることを昔の漢文と対比しながら理解し、そこから古典の学習に遡行していくというスタイルが、古典(教育)を単なる「道具」としないために重要だと考えるからである。
これと発想法は似ているが、唱歌の活用というのは近代文語文より生徒にとって馴染みが深く、桜蔭のようなレベルの生徒でなくても取っつきやすい上に、わかりにくい箇所が限定的であるために、学びの箇所に意識を集中させやすい点でいっそう優れている。加えて、音から入るために、(五感に訴えかけるという意味で)ただ読むよりも定着が容易となるものと思われる。
以上、「音楽」と「古典」という科目的なセクショナリズムさえ取り払ってしまうならば、非常に有効な古典学習法の一つということで紹介してみた。なお、古典を音楽を通して学ぶという主張に違和感を覚える向きもあるかもしれないので、類似のケースとして音楽を通して歴史を考えるというアプローチを紹介しておきたい。2025年2月の東大日本史では、近代日本における唱歌を題材とした論述が出題されており、そこでは明治新政府による西欧文化吸収の苦闘、あるいは唱歌がナショナリズム醸成のために果たした役割が問われていた。昨今の日本教育では科目横断的な知が重視されるようになってきているが、「音楽」もまた単体では完結せず、歴史や政治経済にも深く関わっているのは当然であり、古典が音楽を通して学ぶのは邪道どころかむしろ有効な手法であり、逆に音楽の授業で古典や歴史を学ぶことがあって何の問題があるのか、と言っておきたい。
ちなみに音楽の授業で歴史を扱うなら、学校でよく取り上げらえるスメタナの「モルダウ」やシューベルトの「魔王」を取り上げ、「彼らがなぜそのようなテーマを取り上げたのか?」を問えばよい。するとそこからは、19世紀のロマン主義やナショナリズムの話が出てきて、それは当然前世紀のフランス革命と、それがナポレオンによって各国に波及していった歴史が言及されるはずである。
このように、科目を横断した学びはいくらでも工夫可能であるし、むしろやらない意味がわからないとさえ言える。それが教師の専門領域から外れるためやれないというのであれば、そういったプラスαの知識部分はAI生成の動画を流すなど工夫すればよいだろう。ちなみに、日本のPISA復権とフィンランドの凋落もあって、日本の詰め込み教育の有効性を謳う主張を最近よく耳にするが、それが二項思考的にかつての日本の教授法を全肯定することへと繋がらないように注意が必要だ。というのも、同じ知識を詰め込むにしても、それをどのようなアプローチで行うことが有効であるかは、いくらでも工夫・改善の余地があるからだ(これは前に取り上げた「お辺土」と「神国思想」という、日本・日本人の自意識を巡る両極端な思考の不毛さを想起したい。この場合前者は欧米的な学び方や探究学習、後者は詰め込み学習にあたる。どちらか一方に正しさがあるのではなく、是々非々で物事を見ていくべきという話だ)。
話を戻して、最後にまとめを書いておきたい。
・古典を原文で学ぶことにはリズムの体得などの点で重要とする主張がある
・しかし、現在(実態)の古典教育は全くそのようなものになっていない
・これは効果測定としての各種試験で一切問われない点からもわかる
・加えて、そういう教育実態に対する異議申し立てはなされていない
・つまり音声やリズムを重視する人間の意見は実態を無視した空理空論である
・仮に音声からの学びを重視するなら、桜蔭が実施しているという唱歌の導入は効果的
・理由は、「親しみがある・既知と未知の接続・複数のチャンネルによる知覚」の3つ
・現在科目横断的な知が重視されるようになってきており、その点でも興味深い教授法
以上である。古典教育肯定派の意見は、理論だけに着目すれば興味深いものもあるが、実態との乖離を全く見ないがゆえに空理空論でしかないように思われる。そして彼・彼女らがその現実を理解していないのは、古典教育に否定的な見解に対し、ただ「教養」「教養」と馬鹿の一つ覚えのように繰り返す様が最も端的に表している。さらに救いがたいのは、その人たちは自分から積極的に古典教育の意義やその有効な学習法を発信するのではなく、批判や否定に対し始めて重い腰を上げるかのように応答しているだけであり、「今この世界において古典教育の価値が問われるのは当然である」という危機感が徹底的に欠落している点であろう(世界の流れの速さ、経済的衰退、AIの隆盛など、古典教育の価値を疑う意識は高まって当然の状況である)。これはすなわち、その人たちが単なる権威主義化して思考停止しており、にもかかわらずそのことに全く気付いていないことを象徴しているのである。かかる状態であれば、仮に制度的惰性で公教育における古典学習が必修として残ったとて、その目的とするものは極めてレアケースでしか達成されないし、そのような教育に対して縮小・消滅の声がどんどん強くなっていくのは極めて当然のことと言えるのである。
以上。
【余談】
なお、古典教育肯定派の中には、音声やリズムを別に重視しないという人たちも当然いるだろう。その典型は、厳密な品詞分解などによる翻訳的理解能力の涵養を第一義に捉えるようなスタンスだろうが(これは日本の英語教育が論文読解を目的にしておりコミュニケーションと乖離していても構わないという理由付けにもよく用いられる)、それなら今最も向き合わなければならないのは、「AIによる翻訳代行の飛躍的なカジュアル化が達成されてきている現在、そのスキルの習得に時間を割くことにどのような価値があるのか?」という問いであろう。これと真摯に向き合った上で、説得力ある主張をできないのであれば、そのようなスキル取得はほとんど趣味の問題であって(やりたければ私教育や個人でどうぞ)、ゆえに公教育という大きなレベルでは、時勢の流れに飲み込まれて終わりだと言っておきたい。