これまで、君が望む永遠が「感情移入」の対象とすべきゲームではないこと、むしろゲーム開始(特に二章以降)から鳴海孝之の行動・感情を強く規制する「鳴海孝之の文脈」を念頭に置き、細かい感情表現から感情の動きを把握しつつ読んでいかなければ内容を理解することは困難であることを述べてきた。それはまた、本作が「感情理解」型のゲームであることを意味する(繰り返しになるが、クロスチャンネルやFateがこれによく当てはまる)。
とまあそんなことを書いてきたわけだが、たぶん読んでいる人の中には、私が「感情移入」が虚構だと指摘してきたこと(それはつまり「いかなる人物も自分と同じことなどありえない」という見方と同義である)を受けて、それと全く同じ文脈で語っているのではないかと考えたり、あるいは、先に遥との再会シーンでの衝撃について述べたのを見て、「それこそまさに感情移入ではないのか?」と疑問に思っりしたかもしれない。読み返してみると私に説明不足の部分があったので、そういった疑問が出るのも無理はないと思う。そこで、それについて補足をしておきたい。
なぜ、君望について、わざわざ「感情移入」という入り方がよくないと言う必要があるのだろうか?一つは、色々なレビューを見てそういう書き方をしているものが多々あったからと言える。もう一つは、他のゲームと比べて非常に細かい文脈規定がなされていることが指摘できる。例えば、(第二章の)最初から鳴海孝之には彼女(水月)がいるし、遥に対する感情も固定されている。当然、鳴海孝之の行動はこれらの状況・感情に縛られざるをえない。その中で、異常な事態がリアルさを帯びた世界で進行していくのである。
さて、SFやオカルトならば、多少主人公の行動などに難があろうとも、そもそも虚構性が強いため「特殊な世界の特殊な論理・行動」として、ある程度おおらかに受け入れられることだろう。しかし、本作のような作品では、そのような緩衝材(あるいは「逃げ場」)が存在しない。そこで必然的に、行動の評価が厳しく、あるいは不当なものになってしまう。
君望の状況がすこぶる異常なのは明白である
にもかかわらず、だ。ゆえに本作では、(異常な状況も含めた)「鳴海孝之の文脈」という、展開を規定する要素を前提にしながら、鳴海孝之を含めてそれぞれの行動・感情を理解しようとする必要があるのである。その際、「感情移入」という基準は邪魔なものでしかない。
以上の理由で、君望について「感情移入」の虚構性と「鳴海孝之の文脈」の重要性を強調してきたのであった。これは、今までの繰り返しにすぎない。人によっては、前に書いた見舞いのシーンの緊張感などに関する話を覚えていて「何を今さら」と思われるかもしれない。だが、「感情理解」という姿勢については、どれだけ説明してもしすぎるということはない。そこで、より相応しいエピソードを一つ挙げておこう(なぜより相応しいかと言うと、病院のそれは周りを見ればすぐに想像できるが、次の例はともすればその重みを見逃しかねないからだ)。