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疑り深いヤツになっちゃったのは~週刊誌のせいじゃないお前のせいでしょ~♪でも、真実を知ることが、全てじゃな~い♪

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』読了

はじめの20ページくらいで違和感を覚え、読み終われるか不安になったが、50ページほど読んだあたりから面白くなって一気に読むことができた。内容的には、SF的要素もさることながら社会、文学など様々な要素が登場する。そしてそれは、団塊の世代とプチバブル社会を象徴的に表現するものとなっている。

そういった同時代的な面白さもあるが、私が惹かれたのは人間の精神構造や内宇宙に対する鋭い視点であった。特に次の一説は印象に残っている。


「(あなたの)心というものはあなた自身にも理解できないものなの?」
「ある場合にはね」と僕は言った。「ずっとあとにならなければそれを理解できないという場合だってあるし、その時にはもう既に遅すぎる場合だってある。多くの場合、我々は自分の心を見定めることができないまま行動を選び取っていかなくちゃならなくて、それがみんなを迷わせるんだ」
「私には心というものがとても不完全なもののように思えるんだけれど」
(『世界の終わり~』上 314ページ) 

これは常々私も感じてきたことだ。先に「理解と共感:共感という認識の虚構性」で人と人との感覚的、あるいは言語認識上の断絶について触れた。しかし、実際のところより厄介なことに、自分自身ですら自分の感覚を性格に理解することは不可能なのである。これは感情についても言えることだ。その原因の一つが、まさに上で引用した部分に表されている。我々には一つ一つの感覚や感情、行動の性格を内省している時間がないし、またする人もいない。しかしながら、我々はとにかくも行動を選び取っていかなくてはならないのだ。

ここで困るのは、内省という行為さえもが往々にして省略・単純化されてしまうということである。実際には様々な感情や要因が絡み合っているにもかかわらず、我々は感情や行動を(特に言語によって)一元的に性格づけしてしまいがちだ。それは単純なものぐさに起因することもあるし、あるいは「かくあれかし」という(過去への、あるいは現状の)理想が反映されている場合もあるだろう。そして性格付けされた過去の感情や行動は、今度は自己を規定する一要素としてストックされる。もしそこから「本当の自分」などというものを構築しようとするなら、結果は推して知るべしだろう。

ともかく、選択が不断に繰り返される営為であり、内省が変わり続ける自己を通しての分析である以上、それらが相当の制約を免れないことだけは確かだ。そういった現実の限界を認識して、理論倒れになるようなことだけは避けたいとものである。