広陵高校の件は、もっと事態が進展してから書こうと思っていたが、それなりに情報が出揃ってきたのと、敗戦から80年というタイミングでもあるので、本日取り上げておきたい。
旧日本軍において「鉄拳制裁」などと呼ばれる様々な私刑が行われてきたのはよく知られている(と思う)が、日本軍という組織事態は、それを抑止しようとしていた(なぜならそれは軍規を超える規範の容認に繋がってしまうため)。
しかし、階級以外の要素、すなわち古参兵>新参兵(それは年齢に依存しない)という階層など、様々な超法規的関係性がいたるところで見られ、結局それを黙認する結果となるケースが大半だった(個人レベルでの抵抗は散見されたが)。
さて、この構造をもって、日本軍を「私的制裁を禁じた健全な組織」と評価できるだろうか?答えは否だろう。率直に言えばガバナンスの失敗だが、どれだけ肯定的に見てもせいぜい、「自らの作成した規範を形上は浸透させようとしたが、結局は現場の実態に流され、ガバナンス徹底を放棄した」くらいにとどまるであろう。
ではその責任は誰に(または何に)帰されるべきか、広陵高校に話を戻して考えてみよう。もちろん、当の加害者が槍玉に上がるのは言うまでもない(日大タックル事件のように、環境要因は考慮する必要はあるが)。しかし、それを認知しながら、そこに適切な対処を行わなかった組織(監督者たち)にも、相応の責任と処罰が必要であることを、広く共有すべきであろう(これを大雑把に言い換えると、著名人のコメントにも散見される「大人がダメ」という表現になる。なお、暴行のきっかけとなったとされる違反行為に対しても、「悪いことをしたならしょうがない」ではなく、組織として明確に規律をもって罰するべきだったという指摘もある。従うべき見解だろう)。
まずは、今回の件が暴行や傷害といった刑事事件であるという大前提を共有すべきである。次に、その報告がなされなかったという隠蔽行為があった点(これについては高野連との関係性も示唆されているが、ここでは掘り下げない)。そしてそれが後に被害者側からの告発で表面化し、大きく疑念が広がって言わば蓋をしていたものが「めくれた」結果、大きな批判が巻き起こったことをおさえておくべきである。
つまり、話を抽象化すると、「閉鎖的組織で隠蔽を行い、被害者の方を抑圧・放逐してやり過ごしたが、SNSの時代にそのような手口が通用するはずもなく、事態が明るみになって非難を受け、事後的に対処せざるをえなくなった」と表現できる。
こう考えると、ビッグモーターやジャニーズ問題、宝塚問題にフジテレビ問題(中居正広周辺から発生した事案)、日テレ問題(セクシー田中さんや24時間テレビ)と、実に様々な「学び」の機会はあったはずなのに、相も変わらず同じような事案が繰り返されていることが、問題の深刻さと普遍性(自分たちも無関係ではいられない)を物語っており、ゆえに改めてガバナンスを真摯に見直さなければならないと言えるし、そのような認識と行動こそが、以前にも述べたように、先の戦争とそれにいたった構造を真剣に反省・改善するということを意味するのではないだろうか(戦争反対と叫ぶ「だけ」なら誰でもできる)。
そして本来、大手メディアはこうしたパースペクティブで物事を検証すべであるのに、相も変わらずSNS言説批判に精を出しているあたり(なおSNS上での私刑が広陵高校部員のそれと同様に許されないのは言うまでもない)、満州事変を拡大路線に煽り、旧日本軍の大本営発表を右から左に流していた頃からまるで反省も進歩していない姿を自ら証明してわざわざ死亡診断書にサインしているあたり、(甲子園と新聞社の利権構造もあわせて)救いようのない存在であることが改めてわかったのは収穫の一つと言えるかもしれない。
以上。