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エロ漫画評から見る「文学的」ということについて:アンチカタルシス、麻薬系コンテンツ、他者からの退却

早く令和のバタイユになりたい(・∀・)!

 

どうもゴルゴンどす。さて、突然だが、エロコンテンツを大量に見ていると、否が応でもそこにパターンというか、一定の傾向を見いださないわけにはいかないものだ。とはいえ、そのようなものを分析・法則化したとて、一体何の益があるのかと訝しむ人々もいるかもしれない。

 

しかし歴史的に見れば、『金瓶梅』に潜む社会への風刺や批判、あるいは『ソドムの120日』における理性崇拝からの解放(折しも時はフランス革命前夜であった)・・・といった具合に、エロスを扱った作品を単なるポルノグラフィとして切り捨てるのは適切と言いがたい。例えば現代日本においても、ATGや日活ロマンポルノのような形でアバンギャルドな作家たちがその表現を競ったように、いわば領域のアウトサイダーアウトロー性が、表現上の制約からの解放を促し、エキセントリックで豊穣な作品世界を現出させたと言える(ちなみにだが、今はもう卒業した「大浦るかこ」というVtuberが、「何で昔の文豪は、自分の行動にいちいちあれこれ言い訳せずにはいられないのか」と評していた。至言であろうw)。

 

このように考えてみた時、エロ漫画というものも同様の文脈で考えられそうだが、しかし「エロ漫画を評価すると言っても、結局は町田ひらくぐらいしかイメージしてないでしょ?」とも言われるように、作品としての総体的評価はおしなべて低いものであるように思われる。しかしここで、逆に町田ひらく的なるもの「は」評価される(されそう)という話から、逆にその評価の基準であるとか、あえて少し踏み込むなら、「文学的とは何か」みたいなものを考えてみるのもおもしろいかもしれない(柄谷行人『日本近代文学の起源』における「風景の発見」のような感じで)。

 

で、例えばレンブラントという画家について、「あまりに幸せに満ちた生活であり、作品にしようがない」などという評を目にすることがあるが、それはつまり作品化した時に一種の抑揚や陰影をつける余地がなく、アクセントのない一本道(右肩上がり?)の展開になってしまう、と言い換えることができるかもしれない。

 

これを一種の「身もふたもないわかりやすさ」とみなした場合、なるほどエロ漫画というものは、(最近販路の多様化でそうでもなくなりつつあるが)基本的に雑誌またはWebでの単話配信、あってもアンソロジー集での販売となっており、おしなべて一つ一つの話は長くはなりえない点が特徴的である。そしてその中で、エロティシズムという点で読者にカタルシスを得てもらう、という制約を負っているとは言えそうだ。

 

結果として、エロ漫画の展開というものは、展開の違いは様々あれど、「とにかくエロに持ち込む理由付けをどのように作るか」という軸を元に構成されており(その意味で「エロ要素さえあれば、その他の表現の自由さが担保される」という前述のATGなどとは真逆と言える)、純愛・NTR、催眠・傷心・エステなど樹形図のようにルートがあるだけで、あとはその組み合わせの問題に過ぎない、という表現ができるかもしれない(あとはいかにそこに読者をライドさせスッキリしていただくか、という話)。

 

その意味で言えば、エロ漫画はいわゆる「麻薬系コンテンツ」の極北とも言えそうだが、こう考えてみると、町田ひらくの作風、すなわち「余白」(わかりやすさの拒絶)や「アンチカタルシス」(他者性と所有の不可能性)の要素が、言わば「文学的」なるものとして評価されやすいというのは、容易に理解できる部分であると思われる。

 

ちなみにだが、これだけ大量にコンテンツがある以上当然とも言えるが、アンチカタルシス系の作品も当然のように存在している。たとえば月野定規と言うと、「巨根とテクでショタが姉・おばを篭絡する」という作風が特徴的だが、『ボクの弥生さん』は身体の方は別の人間に脅迫され堕とされながら、生活としては主人公と弥生さんが添い遂げるという展開になっている(ただ、この展開が作者が望んだものか編集者が提案したのか謎だが、それ以降は再び典型パターンに戻っている)。あるいは以前紹介したアシオミマサト『クライムガール』のように、エロ漫画という制約上エロ描写という「ノルマ」はクリアしつつも、それが繰り返しなされる理由付けをサスペンス的に用意しつつ、最終的にはハーレムエンド的なものに決してならない(話の展開上当然ではあるが、むしろ真逆の結果)というアンチカタルシス的展開になっていたりする。

 

とはいえ、同人ならともかく、商業誌で先に述べた制約を負って作品を描く以上、そもそもどうエロ展開に必然性を持たせて楽しませるかに特化した方が作者・会社・読者の三方良しじゃね?という見方もあり、この点で最も戦略的かつ成功している一人に『シャイニング娘』や『ヌーディストビーチに修学旅行で!』などを手掛けた師走の翁を挙げることができるが、彼のようにむしろ仕組みを可視化・極端化してしまう方が、「第四の壁」ではないが、かえって強烈な批評性を感じるようにも思われる(ちなみに家に帰るとなぜか妹で全裸でいて、意味不明に性行為が始まるというシュール展開を得意とする漫画家がいたのだが、名前を失念したのと確か商業誌の人ではなかったのでここでは割愛する)。まあガチでそういうものに挑戦したいのなら、つまり自分の作家性・趣味を貫きたいなら同人でよくない?という話になるわけで、ある意味でもその結果が商業誌におけるエロ漫画=麻薬系コンテンツの氾濫、と表現することができるかもしれない。

 

しかし、麻薬系コンテンツだと価値がないのか、分析に値しないのかと言えば、私はそうは思わない。例えばコンテンツのジャンル別での多寡と受容分析から、傾向やその変化を見て取ることもできる(その最たるものは、エロ動画のジャンルで「milf」が全世界でトップになったことだろうかw)。

 

たとえば、先に販路の拡大に触れたが、要はWebでの販売によってジャンルの細分化に対応が可能になったことで、非常に多様なアンソロジー集が販売されるようになった点を見て取ることができる。

 

その中で私が興味深いと思っているものの一つは、男性が攻められる「M系」のコンテンツとその増加。というのも、エロコンテンツというのは、「結局のところ男性が女性を絶頂させることで自己承認欲求を満たすもの」とみなされている部分があり、そこからの妊娠エンドは「所有によるカタルシスの完成」という意味で最もわかりやすい展開と言えるが、M系のコンテンツにはその要素が皆無か、あっても極めて薄いものとなっている。

 

これをやや強い言葉で言い換えると、「快楽は得たいが対象の支配に興味がない」とも表現できるが、これは他者支配→他者理解(他者の尊重)という変化とは違い、「相手をリードしたくない・エスコートしたくない=プレッシャーからの解放欲求」という傾向であり、また「相手にお任せしてサーブしてもらいたい」という、これまた強い言い方をすれば「オナニーの拡張版」(メイドつきオナニーとでも言えようか)のように表現すべき傾向を表しているように思われる。

 

もちろん、こういったジャンルとその売り上げが全体のうちどの程度を占めるのかを定量分析しないと、それを一般的傾向とまでみなすことはできないが、一つの潮流として興味深いものであるし、またこういった「自己の快楽をブーストしてくれる都合の良い他者をこそ望む」という傾向は、AIの「進化」とAIの「劣化」という観点で繰り返し述べている、未来の人間像に近似するものだと考えている次第である(で、そこでも書いているように、AIが進化したからと言って、おしなべて人間がAIに依存する訳ではないというのは、エロ漫画のジャンル的多様性からも見て取れる・・・というのはさすがに言いすぎかwww)。

 

まあ考えてみると、ふたなりや男の娘といったジャンルがなぜ隆盛したのかを分析した時、そこにもちろん落差や禁忌の眩暈という要素はあるだろうし(カワイイ→でも男や!→でもカワイイというグルグル思考w)、あるいは日本に関して言うなら、衆道や陰間の伝統を指摘することもできる(ただこの方向で話をするなら、同性愛を禁忌とする欧米的価値観が入って来た近代化以降=明治~昭和でそれがどのように扱われてきたのかを分析しないと、単に都合のよい材料をピックアップしただけになりかねないので注意が必要だ)。

 

とはいえ、おそらく最も直接的な要素は、「男性目線からすると射精の快楽にライドしやすい」という点に尽きるのではないだろうか。これがどの程度訴求力があるかと言うと、いわゆる「潮吹き」が、実際は女性にとっては無上の快楽の表象というわけでもないのに、いわば絶頂の記号(エビデンスw)として有り難がられていることともリンクするだろう。これにはもちろん絵的な見映えの問題もあり、その点で言えば実写AVにおける「ガシマン」問題(激しく手マンをし、それがあたかも有効な性技であるように演出されること)と相似形である。ちなみに二次元の場合は失禁・母乳噴出系の描写もよくあるパターンであることを指摘しておきたい。

 

まあ煎じ詰めると、「中」で生じる快楽というものを他者が外形的に観察することは難しく、それだと展開にライドできずに不安になるから、わかりやすく「液体の放出」をもって快楽の証拠とみなし、安心して興奮・射精するということな訳だが、逆に言えば、「なんでわざわざそんな不安を抱えつつ他者を慮りながらセックスする必要があるんですかねえ(迷推理)」と考える向きが増えてくることも、このコスパ・タイパが重視される世界においては一種の必然なわけで、以上のような見地に立つと、M系コンテンツの発展というのは、ふたなり・男の娘ジャンルも含めた男性目線での不安の暗示が先に進んだ結果生まれてきたもの、と言えるかもしれない。そしてそのようなコンテンツが今後さらに隆盛するなら、それはさらなる異性関係(他者と深い関係性を構築すること)からの退避を反映したものであり、かつその可視化と消費がさらに退避を加速させるような結果に繫がるかもしれない、と述べておきたい。

 

考えてみると、「ユニコーン」という存在の淵源がギルガメッシュの時代まで遡れ、それがいかに処女性を好む生き物としてみなされるようになったかを分析・解体できるように、「エロス」も「文学」も極めて時代の影響を受けた産物であり、またそれだけに不変の真理などでは全くなく、今述べてきたように、様々な具体的作品と照らし合わせながら、それら自体の変化を観察することもまた可能である、と言えるだろう(深淵を覗く者は深淵からも覗かれる・・・というヤツね)。

 

以上のように、様々な視点で現在のエロ漫画とその受容分析の状況を見ながら、社会の未来像を考えてみることもいとをかし、と述べつつこの稿を終えたい。