グハッ、しくった……
前回のフラグメント89で中出しの話を扱うとき斎藤美奈子の『妊娠小説』に触れるつもりがすっかり忘れていた(これこそ「ゴムをつけない(避妊しない)=親密さのバロメーター」という図式にも言及した本として、「下級生」の真由美の例なんかよりずっとおもしろい)。内容について少し説明すると、この本は望まない妊娠と堕胎による苦悩やドラマを描いた小説を取り上げ、それがいかなる手法で妊娠などを描いているかをパターン化している。分析対象の選び方(カテゴリー)もおもしろいが、何より興味をひかれるのは分類の仕方である。たとえば、妊娠発覚とその影響がいつ出るかによって「終盤一発ぶちかまし型」「全篇お祭り型」などに分けてみたり、「妊娠濃度」なる新機軸(笑)を打ち出して大して妊娠が影響を及ぼさない「妊娠パセリ級」だとか妊娠と堕胎を巡るドラマツルギーをメインにもってきた作品を「妊娠ステーキ級」と呼んでみたりとそのネーミングセンス&カテゴライズには目を見張るものがあるw
とだけ言うと単なるギャグのようだが、「妊娠小説」なる作品群において妊娠と堕胎が実存に絡む問題として深刻に描かれていることと、このような分類の仕方が対象的であることに注意したい。つまり、深刻な実存の問題(のように見える出来事)を、その原因のアホらしさを明らかにしつつ(ex.え、そこは避妊しとこうよw)、描写の仕方で分類することによりアイロニーを成立させているわけである(これは「君が望む永遠」の茜妊娠エンドにも適応できるぜよと)。程度の差こそあれ、作品内では深刻なものとして扱われている妊娠や堕胎を、作品を盛り上げるためのアイテムとして記号化・小道具化し、さらには作品のパターンにおもしろおかしいネーミングをつけてるんだから、これ以上のアイロニーはないと言える。ここからは、妊娠や堕胎が生み出す葛藤や実存の問題よりもむしろ、そのような方法で実存が描かれる・描ける(精神)構造の分析へと繋がるであろう(→「さよならを教えて:世界観の意味するもの」)。
「君が望む永遠」をプレイして自分の視点でしかものを見ていないことさえ気づかずキャラを「ヘタレ」と断定して疑わないレビュワーたち、あるいはいささか古い例だが『抱擁家族』を読んで現在の家族が近代的擬制にすぎないことを忘却してナイーブに発言する文学者たちが跳梁跋扈する社会においては、このようなアイロニカルな手法は今でも非常に重要であると思う次第(両方を貫く話題として「作品に対する反感~」などがある)。もっとも、単なるネタとして見なされるとあっという間に無効化するのが恐ろしいところですがね。まあ、非常におもしろい論考なのは保証するのでぜひ読んでみてくださいな。
おっといつものことながら前置きが長くなってしもうた。いい加減本文に入ります。
<年末、チャート入力> 「戦後処理」
ゾイド2…皇帝自身は話のわかる人物にする(ランドは「あくまのようなおとこ」)ことで、君即の奸を取りのぞけば平和になるという寸法。てゆうからんどの反乱を聞いて「預かり知らぬ」ってのはどうなのよ?てめーのけつくらいてめーで拭けってのwまあ多少深読みするなら、らんどを止めようとして内部抗争に発展し、共和国に漁夫の利を与えてしまう可能性を危惧しているとも考えられるが。
<君望> 「サブキャラシナリオの批判性」
そもそも、メインシナリオとサブシナリオを等価に見て疑わない姿勢こそ、恋愛ADVのシステムに埋没していることの表れではないか?
<野川→田園調布→等々力> 「トランスオクシアナ」
雫と痕。閉鎖空間、体験との関連?実在しないのは当然。そんな低レベルな話はしてない。不粋…それを土台にしてものを考えられているかが問題。聖おにいさん…まじめに考えろネタにするな!そりゃ違う。そーいう人ほど真の宗教とかいう枠組みにはまる。確かに実態を知ることは重要だ。しかし、それをもって~教徒ではない、と決定づける権利が一体研究者にあるのか?おれらはいつから原理主義者になったのか?そういう「マジメ」な人が「真の歴史」にがんじがらめになる。
<コンダクターとして>
ジュンクで仕事系の本見てると連絡。STDなった~と。池袋で丸井のバーゲンにこないだ連行された。混沌、資本主義まさに池袋。ネクタイスーツ。おふくろ→ばばあ、アベシマート最高。人ゴミで汗かいて回復を狙う。福しんに行きたい…はぁ?亜空間喫茶。人多くて普通。法関係の話。道徳と法。不透明さへのヒステリックな反応。目指すべきゴールの提示。やる気ないのに何だかんだで司法試験受かってるし。
<無宗教に関する問題設定> 「日本人の『無宗教』に関する覚書」
無宗教は自己認識。本当に無宗教かを論じ、~といった要素から日本人は実は~教徒だと言ったところで無意味。だから何?じゃあ何で無宗教だって思うの?と言われて終了。また誰かにそう諭したところで「そんなこと言われても…」と困惑され、しまいにあなたは迷惑な宗教の勧誘と同列に扱われることだろう(戦略的にも無価値)。パラダイムシフトが必要だ。仮にwhetherを問うにしても、それは過程ないし条件の確認に止め、目的はあくまでwhyでなくてはならない。さもなくば、あなた自身が真理という名の宗教を信仰しているのに気付かぬまま、他者を断罪することに