ある調査によると、コスモの高まっている人というのは菱形を見るだけでエレクトできるのだそうです。最近は雨が多いため、順調に新芽が育っていますが、そのようなたくましい茎に成長してほしいものですね。さて、久しぶりにフラグメントでも載せてみませうか。
<無題>
整形…騙された感じがして不快(食品ラベルの偽造…は直接関係する)。成長して美人になるのはOKなのに…。それは自然だから問題ない。じゃあ化粧しているのは?結局「虚像」しか見てないんじゃん。化粧は努力しているから…いや整形もどんだけ高い金払ってると思ってんだ。作り物な感じがして不快…二次元(じゃあ髪ボーボーがええのか)?図像の消費なんだから内面なんぞ意味がない。消えればまた次のが出るだけ。代替不可能性、代わりはいくらでもいる。芸人は芸をやってなんぼ。それがダメになったらいらない。
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生理的嫌悪感、あるいは虚像が虚像でしかないと自覚させられるがゆえに憎悪する。
<「しあわせの理由」…ロボトミーの逆>
ソクラテスが同性愛者だとなぜ笑えるのか?啄木が遊廓で遊んでいたことへの笑いとは違う?後者は隠蔽への嘲笑、風俗で遊んで身を滅ぼしたことへの笑い。メジャーがマイノリティー化する感覚…引きずり下ろし?でも別に思想がクソだと思ったわけじゃない、単なる下ネタ?倫理の範疇に収めたがる…それこそが下らない。どうせ救われる物語と同じように。整形がネタになる理由を考える。身近な人間ならいざ知らず、ブラウン管を通してしか関係しない人々の深層に不快感の抱きようもない。もし虚飾が徹底的に嫌いなら、テレビを見ないほうがいい。いや生きるのをやめるよろし。
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「偶像と暴露」のもと。ちなみに題名は内容と(ほぼ)無関係。てゆうかまあ、わかってて批判に耽溺している人間もけっこういるんだろうけどね。どーせ虚構だしさ。ん、でもそういう傾向は利用できるな…
<五反田等々力多摩川で妄想>
等々力読めず興味。二子玉川もよい。町並み酔い。踏切おねいさん。長瀞と違い、包み込むやうな感じ(中にいるってのもあるが)、庭園でぼけーっとする。坂を上る→野毛…そういえばかつては「ノモウ」と読んで大笑いされた経験が(俺は感じ音痴なのだ)。秋と冬には来ねばなるまい。大木を見て…何物にも動じない心の平静。しかし実際は風雨に耐えたりしているわけで、自然=平静ではありえない。要するにそこでは他者との関係が無視されている。感情移入の恣意性だ。単に心の平静を求めるならロボトミーで如何。それはない。つまりは自然への幻想。他者仮託するな
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実は8/23の休みに二子玉川と等々力に行く予定だったが、雨が降ってて断念した。
<げんしけんはなぜ嫌い?>
二項対立で処理されていることのほとんどはグラデーションの問題にすぎない。どこからが神経質?と問えばわかる。しかし使われ続けるのは、それがわかりやすいからだ。推理する=疑う…目明し編子音が好例。モナド化への抵抗…団結イベントでオタクなども巻き込む。対岸の火事にしない。小さなコミュニティを超えて。あるいはプレイヤーの移入対象?
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「げんしけんなどへの嫌悪感の源泉は?」のもと。「何となく」を考える。ただし、決め付けない。思考の過程を記録する。また、必ず明確な結論があるはずだ、という欲望の解釈への信仰から距離を置くべき…とか何とか(随分昔に書いた「scenceへの拘泥」などとも繋がる)。ちなみに記事の後半は、ひぐらしの団結イベントの話をしている。蛸壺化や無関心と様々な人間の巻き込みが…とかいう話。