この前、「学生時代に戻りたいですか?」というありがちで、しかし改まって聞かれることのあまりない質問を職場の人間から受けた。そしてその時、はっきり否と私は答えた。というのも、小学生や中学生、あるいはその他のどの時代であれ、あのような無知で幼稚な無明の時代に戻りたいと思う理由がないからだ(相手にそのような説明まではしなかったが)。
すると「頭の中は今のままで戻れるとしたらどうですか?」という次の質問が飛んできた。しかしそれに対してもやはり否と即答した。なるほど仮にそのような状況になったら、昔見ていたものが全く違うように見えるであろうし、その結果として一つの出来事に関して二つの異なる直接的体験をえることが自分の世界認識を大きく変えうるのではないか、という点で興味はある(ちなみに、たとえば「あの頃の元気な身体が懐かしい」といった話なら、それはみずみずしい肉体を取り戻したいという願望であって、あの時代に戻りたいという希求と異なるのは言うまでもない)。しかしそれと同じくらい、あるいはそれ以上の「吐き気」が自分を殺すのではないか、という思いが私の中に強くあるからだ。自らの愚かさは前提としても、短絡的で愚かしい生徒たち、あるいは卓越したものを認めようとしない箱庭の蟻たち、そして当時はそこまで意識されなかった、大した能力もないのに教師というだけで権威を振りかざしている連中etcetc...これらを受け入れつつ閉鎖空間の中で長い時間生きていくなどと考えただけで気が狂いそうになるところだが、もしかするとそれが嵩じて敬意を払うに値しない教師などを罠にはめて社会的に抹殺することなどを考え始めるかもしれない・・・
もし私の言動が異常に感じられるなら、「桐島、部活やめるってよ」や「14歳」、「明日、君がいない」などの映画を見てみるといい。そうすればあの頃の閉塞感や吐き気、またそれを忘却する大人の愚昧さ・無責任さをすぐにでも思い出すことができるのではないだろうか(少なくとも私はそうだ)。もちろん、楽しいこともたくさんあるだろうし、また今の視点だからこそ、当時気付かなかった友人や教師の深謀遠慮に気づく部分もあるだろう。しかしそれと同時に、繰り返すが醜悪な、どうしようもなく醜悪なものがかつて以上にはっきりと見えてくるはずだ。
以上のような見地に立つがゆえに、私は「学生時代に戻りたい」という問いに対してあの頃の吐き気のことをどうして言及しない(=想起しない?)のか疑問に思う。ましてや「学生時代に戻りたい」と答える人間についてはなおさらだ。もちろん、ノスタルジーがしばしばそうであるように、現状への不満が強ければ強いほど、それはもはや理屈を超えた希求になってくるというのは理解できる。しかしそうはいうもののやはり強調せねばならないのは、「学生時代に戻りたい」という発言が、ただ過去を理想化して吐き気を忘れているだけにすぎない、ということだ(これは社会・歴史にも同じことが言えるが)。まああるいはそう考える人たちにとってまさしく学生時代とは非の打ちどころのない楽園であって、私のような吐き気を催すことなど万が一にもありえないのかもしれないが。これに関しては、そのような人たちが前述のような作品を見た場合にどのような反応を示すのか(こんなものじゃなかったと拒絶するのか、はたまた自分が無意識に忘却していたことに気づくのか)、そしてどのようなリアリティを生きていたのか興味深いところではある。