こないだファイナルファンタジータクティクスのミニゲーム(ウイユヴェール・エナビア記)について書いたが、後々調べてみたら近日中にリメイク(原作ママのクラシックも同封)が発売されるんだとか。なるほど、いきなりウイユヴェールの動画がお勧めに出てきたのは、その辺りも関係してるのだろうか?
ちなみにミニゲームの内容も更新されているのかという興味はあるが、何せ新しいゲームを始めるモチベーションが最近底を打っているので(結局ロマサガ2も買ってないしw)、リメイクとなると手を出すのは年単位で先の話になりそうである(個人的にはファンシーなキャラクターのビジュアルと声のギャップによる違和感がどうしても拭えなそう、というのもある。まあボイスをオフにすればいいんだろうけど)。
ちなみに前回話したことをざっくりまとめると、以下の通りになる。
1.トゥルーエンド(生存エンド)で見れる編集後記から、ウイユヴェールとエナビア記には特別な関係があることが読み取れる
2.その関係とは、少し時代こそずれるが、両者の主人公は同一人物らしい
3.これを前提にすると、ウイユヴェールの根底にある冒険主義的側面と民衆への距離の近さ(分け隔てのなさ)が予測できる
4.すると、彼女の行動原理や揺らぎが浮かび上がり、王族派側のスパイながら、ブラックやラガ派に引き寄せられる必然性も理解が容易になる
5.このような史料操作・史料批判的な楽しみ方ができるのは、FFTという作品の特徴(アラズラムによる歴史叙述)としても興味深い
ところで、このようなアプローチは、「同時期の作品の比較対照を通じて、複眼的に時代を分析する」と言い換えることもできる。例えばだが、貴族の生活の一部を描いたエナビア記だが(「正史」とまで言われる以上、FFTに登場するのはあくまで描写の一部なのだろう)、これを単体で見れば、「少女の微笑ましい成長譚」と見ることができる。しかし、その終盤で言及する「革命の時代」であるとか、あるいはウイユヴェールで言及される王族や貴族による政治の独占状況、そして暗示される民衆の貧しい暮らし(ただし政治的自由を優先的に求める様子からは、飢餓状態とまではいかないようなレベルと予測される)を念頭に置くなら、そこには「他者への同情心を持ち善良ではあるが、安逸を貪る少女」という厳しい評価も出てくるだろう(もちろん、13歳で家から出る自由すらない少女に対し、社会への立体的な眼差しであるとか、あるいはそこから生まれる具体的行動を当然のものとして期待する、というのはさすがに酷な話だとは思うが。ちなみにこのようなスタンスをもう少し極端化させれば、それはオーストリアのヨーゼフ2世的なメンタリティなどとなる)。
あるいは逆に、ウイユヴェール単体で見ると、暗殺の横行するいかにも殺伐とした政争・暗闘の内幕を描く記録と読めるが、ここにエナビア記の描写を持ってくることで、(単にエナビア記の主人公が世間を知らない・知らされてないという事だけでなく)いかに10~20年程度の短期間で社会情勢が大きく変化したかをうかがわせる効果もあるだろう(日本の例で言えば、ペリー来航前・来航後の変化のようなものだ)。
さて、なぜこのような話を改めて書いたかと言うと、古典教育のあり方についても、同じことが指摘できると改めて考えたからだ。例えば公教育で教わる作品として、平安時代のものなら『枕草子』や『源氏物語』などが有名だが、ではそれらを読むと「平安時代の人々の発想=異文化」が理解できるかと言えば実際のところ極めて疑問だ、というのが以前指摘したことだ。
というのも、今回のウイユヴェールとエナビア記の話を軸に書けば、そこで描かれているのはあくまで「(裕福な)貴族から見た世界」でしかないからである(ゆえに、両作からは民衆の実相は見えないし、王族派のスタンスやラガ派の主張それぞれの妥当性を判断するのが難しく、せいぜい一般的な歴史の素養を元に判断するしかない)。なるほど確かに、古い時代であればあるほど識字率は下がる傾向にあるので、「著名な古文の作品を読む」という古典教育のスタンスからして富裕層や知識人の手によるものしか題材になりえず、よってそのような批判はさすがに的外れではないか、という反論はもちろんあるだろう。
しかし、「それらの作品を読むことで異文化の発想を知る」というのであれば、それは現代日本で言えば「セレブたちのインスタを見てさえいれば、日本社会のことはわかる」と嘯くようなもので、全く見当はずれのことを言っている(そしてそういう人間を古典教育で量産している)のはもちろんのこと、そのような極めて偏った古典教育から得られるのは、「ストレスフルではありながらも、耽美と安逸の中を生きる貴族社会」という世界観であり、実際に平安時代はそのようなバイアスを元に理解されている。よってその世界には、飢饉で苦しむ民衆も、戦乱で荒廃する地域社会も欠落しているのである(私は別に「虐げられた民衆の姿にこそ歴史の真実がある!」などと主張するつもりもないが、とはいえアナール学派が生まれて100年近くも経つというのに、いちいちそんなことにまで言及せねばならないのか、とは思う)。
それだけではない。
仮に話を貴族社会のみに絞ったとしても、今の古典教育の原文主義的なあり方には大きな問題があることは、『伊勢物語』の「東下り」の学習に関して述べた通りだ。すなわち、「京」の範疇は極めて狭く、隠遁先とされた宇治などはもちろん、東山ですら狭義の「京」からは外れるという地理感覚を理解しておくことなしに、現在の東海地方まで旅をしている東下りの根底にある不安や悲哀は決して理解しえないということである。あるいは、神道や仏教に関する理解も必要だろう。特に仏教は、末法思想などもあり、自らの業やこの世の艱難辛苦から免れるための出家の希求、あるいは災害が起こった際の無常観の発露といった形で作品にも陰に日向に登場するわけで、このような発想がどう生まれて社会にどのような影響力を持っていたのかを知る事なしに、例えば『方丈記』や『徒然草』を読むことで一体どれだけの実りが得られるのか、私にはどうにも理解できないのである(せいぜい「隠遁者の皮肉」ぐらいか?ちなみに仏教界が世俗社会の論理から自由であったわけではなく、有力貴族や有力武士の出家先であったことから、その中にも厳然たるヒエラルキーが存在していたことを付言しておきたい)。
というわけで、同時代の周辺情報が乏しい状況で古文の原文講読に心血を注いだとて、せいぜい「平安=きらびやかな貴族の時代」という、極めて一面的な理解しか生まれないし、あるいはその冒頭をそらんじて懐古趣味的な会話のデッキになる程度であろう(これはちなみに自分のブログでも度々やっていることであるwこれで教養とか文化的素養がどうのこうの言われてもね、というレベルの話)。そしてこのようなバイアスや誤読は、戦国時代の話になるが、同時代の朝廷や室町幕府の苦しい財政状況を知らずに「天皇の譲位を迫った=信長は天皇をも恐れない人間」とする理解や、あるいはより一般化すれば、複雑な要素を比較考慮せず、ただ都合のいい情報だけ積み上げるタイプの陰謀論や疑似科学の構造と相似形であることも指摘しておきたい(だからこそ、私は古文の文法学習と原文購読の前に、まず作品の特徴理解や同時代の周辺情報の把握が先だろうと繰り返し述べている)。
今の古典教育は、喩えて言うなら「シェイクスピアの英語を原文で読めばテューダー朝末期~ステュアート朝初期のイギリスが理解できる」とか、「ワーズワースの詩を原文で読めばロマン主義というものが理解できる」と述べるようなもので、真面目に言っているなら受け手の天賦の才に期待しすぎだし、逆に無理だとわかってそれをお題目に掲げているなら、堕落そのものとの批判を免れ得ないだろう(少なくとも私なら「お前は何を言ってるんだ?」と素で聞き返しそうである)。
以上。