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疑り深いヤツになっちゃったのは~週刊誌のせいじゃないお前のせいでしょ~♪でも、真実を知ることが、全てじゃな~い♪

習合的意識の怪

日本の宗教は多神教アニミズムシンクレティズムで、ゆえに宗教的に寛容だと言われるが、よくよく歴史を見返してみれば到底そう簡単に規定できないと思うような事例が多々ある。

 

その一つが、前回述べた鎌倉仏教・キリスト教・大本など諸々の宗教弾圧であるが、これについては「あくまで国家レベルの、反体制という危機意識に基づいたものであって、日本人の宗教意識の現出としてみなすのは不適切ではないか?」という見方もあるだろう。なるほど一理ある考え方だ。

 

しかしたとえば、この事例であればどうだろうか?純粋に日本的なるものを求めて「からごころ」、すなわち外来の要素を排すべしとした本居宣長平田篤胤の思想的影響を受けた明治政府が、神仏分離令を出したことはよく知られていることである。これは名前の通り神道と仏教の分離を意図したものであったが、もし日本人の心性がまったき習合的意識(シンクレティズム)によって成り立っているのであれば、このような政府の施策に反発こそすれ賛同することは考えにくいところである。

 

しかしながら、よく知られているように、その神仏分離令廃仏毀釈すなわち仏像の破壊のみならず、寺領の没収などを含む全国的な運動へとつながっていった。この時、反発する動きは真宗の信仰篤き越前などの一向一揆程度であり、廃仏毀釈の動きに比べれば微々たるものであった(ただし、「全国」とは言っても東北のようないわゆる「真宗篤信地帯」では運動が盛り上がらず、ある程度の地域性があったことにも注意する必要がある[もちろん奥羽越列藩同盟の抵抗はあったが、1870年の大教宣布の際には戊辰戦争はすでに終結している]。なお、このようなグラデーションの問題は世界を見れば当然の留意点である。たとえばドイツは北部ではプロテスタントが多く[ローマ教会に近い]南部はカトリックが多いし、カトリックで有名なフィリピンも、インドネシアに近い南部はムスリムが多くなる、といった具合である。よく「日本の宗教」と一括りに言われるが、カテゴリーとして便宜的に用いることは無論あるとしても、それがグラデーションなく成立していると思うのは端的に言って誤りである)。むしろ、このうねりに驚いた政府が、自らの出した布告に廃仏の意図はないと述べ、自体の鎮静化を図らなければならなかったほどである。

 

これは実に奇妙なことではないか?なるほど確かに、当時の仏教界は檀家制度などによってすでに江戸幕府と癒着したものとなっており、アンシャンレジームを倒そうとしたフランス革命(そこでは、聖職者=第一身分が、旧体制の象徴として打倒の対象となり、領地の没収や十分の一税廃止などが行われた)ではないが、それが幕府とともに倒されるべき旧体制側の存在としてみなされていた部分(権力闘争的な側面)も考慮に入れる必要がある。しかし、巷間「日本人の宗教」なるものを取りざたする時にほとんど開口一番多神教アニミズムシンクレティズムのいずれかが言われるわけで、それほど我々の根源をなしている要素であるならば、あるいは超歴史的に過去の日本人の宗教意識の根源も規定していた要素であるならば(そう考えるならば)、どうして政府の布告に対して全国的な反発が起こるどころか、むしろそれをより過激にした廃仏運動が全国的に生じたのであろうか?このことから、シンクレティズムが日本人の宗教意識の根底をなすという見方には疑義を挟まざるをえない。

 

もちろん、次のような視点はありえるだろう。すなわち、一晩にして「一億総火の玉」が「一億総懺悔」となったと言われるように、勝ち馬に乗る性質、あるいは三島が「一番病」と呼んだような性質が、「明治政府という勝ち馬に乗るために、仏教という旧きものを熱心に排除する側につき、もって権力者の歓心を買いたい」という動きを生み出したのだ、と。これは先の権力闘争の話ともつながる視点であるが、無視すべきではない要素であるように思われる(何せ先の大戦では殺すと言っていた相手の親玉に対し、その子供を産みたいなどと手紙を出すくらいの変わり身の早さだ。そのくらいしてもおかしくはないように感じられる、と皮肉を込めて書いておこう)。しかしいずれにしても、「日本人の宗教的寛容性」など所詮その程度のものである(=条件次第でいくらでも変わりうる)ことを示すという意味では同じことではないだろうか。