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疑り深いヤツになっちゃったのは~週刊誌のせいじゃないお前のせいでしょ~♪でも、真実を知ることが、全てじゃな~い♪

この世界の片隅に~水原の発言について~:年末お蔵出し其の参

寒い→眠りが浅い→寒い+もっと眠い→疲れたよパトラッシュ

的な状態になっているムッカーですがみなさまいかがお過ごしでしょうか?誰かドラゴンボールの回復用カプセル(?)でも作ってくれんかのう(´・ω・`)まあそんなわけで(?)、元々予定していた記事がまだ仕上がらんので、年末お蔵出しの続きをぶっ込んでみようと思う(元の記事は「残り化す」「ひぐらし・うみねこ・青空」。クッソ長いのでお時間ある時にどーぞ)。

それらで述べたのは、端的に言うと「人間は誤つ生き物である」・「まして極限状況ではなおさらである」・「ゆえに自己責任よりも相互扶助のマインドを持つ方が合理的である」という「順接」の話で、ゆえにそれは「論理的」であって、これが理解できないというのはよほど失敗をしたことがないか、頭がめでてーかのどっちかだ、というものであった。

人によっては飛躍があると思えるかもしれないが、だとするならそれを橋渡しするのは「この世の摂理は人知を超える」という事実だろう(まあ100年、200年経ったらこの事実もどうなってるかわからんがね。人工知能が発達して「ラプラースの悪魔」が現前するのかもしれん。あるいは「地球幼年期の終わり」とか「メッセージ」的な邂逅が実現するとかね。ま、そこまで人類が存続してればの話ですがw)。

とりあえず「善行が善き結果も生み出すなどと考えるのは中二病だ」という趣旨のマックスのウェーバーくん発言とか「合成の誤謬」で納得してもらえると話は早いのだが、それが難しいなら東日本大震災と大津波、短期間で二度起こった熊本大地震を連想すれば十二分に理解できるんじゃあないだろうか(これは単に自然災害が予測困難ということに留まらない。たとえば東日本大震災の場合、二日前に防災訓練が行われた地域では震災時にも防災センターの二階に逃げ込んだが、そこまで津波が来て全滅の憂き目にあった。あるいは同じように歯医者で患者が逃げなくて医者たちも逃げられず、全滅したという話もある。後者に関しては、家族への心配なども含めた「惻隠の情」や実感に従うと即ち死、あるいは共同体全滅といった現実をふまえて「津波てんでんこ」という教訓が残されているわけである。ちなみに熊本大震災では一度目の地震で家が多少傷んだ状態になったもののやはり慣れ親しんだ環境がよい、ということで家に帰ってたら二度目の震災で倒壊して亡くなった、という例がある)。まあざっくり言うと、「何も悪いことはしてないのだから平穏な人生が送り続けるはずだ」などというのは独りよがりな妄想にすぎないわけで、だからこそリスクマネージメントの意味でも相互扶助が必須なんだな(これは別に新しい話でも何でもなく、たとえば日本では数百年前から頼母子講などが存在していたのである)。

え?それが一体「この世界の片隅に」と何の関係があんのかって?大ありですがなダンナ!!この作品ほど、人間関係や戦争、災害を通じてこの世界の見通し難さ・数奇さを端的に描写した作品はないんだから(その意味で、これをただ「戦争をテーマにした作品」とみなすのは矮小化以外の何物でもない。また、戦時中から「戦争は悪だ」とか「日本は負ける」とか予言者仕様の主人公が連呼してるような反戦作品はプロパガンダ以上の価値を持たないが、それとこの作品が隔絶しているポイントでもある。この話がよくわからんと思うなら、「ヒトラー最期の12日間」「帰ってきたヒトラー」を見ていただきたい。同じ過つ人間としてその現象を見返し構造を徹底的に分析しなければ、防ぐ方法などあるはずもないのだ)。たとえばすずは時限爆弾によってその右手を喪い、表現手段とともに自身を見失うことになるのだが、一方でそれは廣島原爆投下の現場に行かずに済むことへとつながっているし(援助に行った人たちが白内障などで苦しむ姿も作中では描かれている)、また戦災孤児と出会うきっかけを作ってもいるのである。そこで描かれているのは、まさに「禍福は糾える縄の如し」というこの世の見通し難さそのものであると言っていい(にもかかわらず、自分に都合よくものを考えてしまう人間の悲哀が遅れてきた「神風」として原作では描かれている。この描写はアニメ版にはないが、作品の持つ豊かさを理解する上で台風のエピソードは決して外すことができないものだ)。

なぜ今さらそんなことを書いたのかと言うと、アニメ版を購入したついでに原作やアートブックを読み返している時、自分の「水原は戦死した」という理解が誤っていることに気づいたからである。青葉の飛翔という幻想的描写とすずが彼に声をかけないことでこの世ならぬ存在となっていたと認識していたが、あれは現実の彼そのもので、そしてそれに声をかけない理由も椿の晴れ着を物々交換に出すという描写で暗示されていたとは・・・この作品の奥深さを改めて思い知った次第であるが、これは作品が描く「この世界の偶然性」にも通底するものであることに気づかされた。水原とすずが再会した時、彼は周作に「死に遅れるいうんは焦れるもんですのう・・・」と言っていた。実際彼は海軍の軍人として何度も死線をくぐり抜け、仲間の死と直面してきたと推測されるだけに重い言葉だが、その彼が生き残る一方、銃後の人間すなわち晴美たちが命を落とすという皮肉・偶然性が描かれている、と感じたからだ(「カラー映像の『身近さ』が作る熟考の契機」も参照)。

このような偶然性とそれゆえに戦争が持つ暴力性を描いた作品としては名古屋大空襲を描いた「あとかたの街」東京大空襲を描いた「火の瞳」などを挙げることができるだろうが、個人的には母方の祖父のことを思い出す。というのも彼は、終戦間際の大湊で機銃陣地に入って空襲に応戦していたのだが、そのゴタゴタの中で別の人間が千島方面の飛行機に乗ったらしく、かつその飛行機が行方不明となり、終戦後に熊本へ戻った後で自分の死亡通知書を受け取る、という経験をしているからだ(名簿上は祖父が搭乗員の一人になっていたのでそういう対応になったものらしい。なお、終戦後の死亡通知書については一ノ瀬俊也「皇軍兵士の日常生活」なども参照)。なお、この偶然性というものについては、災害の他に通り魔も含まれる。今述べた話がわかりにくいという読者諸兄は、それを軸にした作品である「ユリイカ」などを見ていただくとよいかもしれない。

ともあれ、「実は水原が生きていた」という認識を通じて、この作品の深みにまた触れることができたという喜びに触れつつ、この稿を終えることとしたい。

※以下が原文。

【水原の言動について】

もし戦争がなかったら、この二人が結婚していたかもしれない。という意味においてそれも「偶然性」、「縁」の一つである。貧乏ゆえの軍人という選択。志願制のもつ不平等。結局貧乏人が戦場に向かわざるを得ない構造になっているから。マイケル=サンデル

ここでの言葉は重い。というか前に書いた自分の祖父母たちとの交流を通じても、彼らを祖国を守った 英雄とか 逆に大量殺戮に関わった人とか。

祖父母は祖父母じゃろ。敬愛すべき存在だとは思っても、

英霊と一緒にされるのはごめんだ。これは反戦か。まず、多様性の問題を見落としている。周作の父親。そして誰かの夢は誰かの悪夢でもあるというモノローグ。そし何より、「父親たちの星条旗」を作ったイーストウッド反戦主義者か。むしろゴリゴリの右である。草の根保守。

要は国家に埋没する発送との距離感。

これをもって反戦と捉えるのなら白痴。政府がやることを受け入れるのが保守か、右か(まあ「反体制」的な発言が左っぽく見えるから、その逆の連想で右っぽいということなのだろうが)。それはただの権威主義者である。既得権益にすりよるハイエナ。大いなるものに自分を埋没させて思考停止する である。国家=日本政府か。そうではあるまい。そして検察の暴走や警察の 、密約とその否定などを上げるまでもなく、国家機関は無謬ではない(それならそもそも選挙もいらんわ)。

結局のところ、あんたらは人を人と見とらんのと違うか。それが無意識の埋没と高揚によるものなのか、それとも祭り上げることで利用しようとしとんのかは知らんけどな。