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疑り深いヤツになっちゃったのは~週刊誌のせいじゃないお前のせいでしょ~♪でも、真実を知ることが、全てじゃな~い♪

ウイユヴェールとエナビア記:FFT内の二作品を重ね合わせることで見えてくるもの

 

 

 

「ウイユヴェール」か、懐かしいな・・・ファイナルファンタジータクティクスは自分が高校性の時に発売されたが、キャッチや密猟でレアアイテムを手に入れたり、隠しキャラを出したりと、かなりのめり込んだ記憶がある(いまだに「塵地螺鈿飾剣」とか頭に浮かんでくるし、シャンタージュやソルティレージュ、セッティエムソンといった香水系の名称とかもなぜか記憶しているwてか毎回ウィーグラフ戦やレディ戦が関門になるんだよなあ…)。

 

まあ何で17年も前の動画が今になってお勧めに上がってきたのか?という疑問はさておき、動画のウイユヴェールは、その中に出てくるサウンドノベルタイプのミニゲーム(いわば虚構内虚構)である。

 

何だミニゲームかと思われるかもしれないが、冒頭の不穏で不気味なBGMに謎めいたセリフと硬質なタイプ音が醸し出す緊張感、しかしそこに続くのはパブロとシモーヌ(ウイユヴェール)の茶番劇という具合に演出の緩急が上手く、さらに意味ありげに出される下の数字、度々出てくる選択肢などからついつい本編そっちのけでのめり込んでしまう内容となっている。

 

この点、フラグ管理が難しくてあっさりと(それが誰のものであれ)死で幕を降ろす展開が多いため、茶番劇の舞台裏には常に死が張り付いているという意識の中、薄氷を踏むように戯れのような対話の中で真相に向けて徐々に螺旋階段を下っていくような雰囲気もまたすばらしい作品である(このあたりは、コンテニュー=反復可能なゲームという仕様あればこその特質とも言えそうだ。まあそのへんも『All You Need Is Kill』などで最近は専売特許とも言えなくなってきているが)。

 

 

 

 

 

 

 

 

展開の仕方も巧みで、確かに中盤いささか展開が弛緩する部分もあるが、一たび隻脚の詩人(ブラック)の話が出てからは話が一気に具体性を帯び始め、パブロやシモーヌ(ウイユヴェール)、ブラックの置かれた立場や関係性が明らかになっていくとともに、

 

 

 

 

 

 

 

 

最後の最後で作者が出てきて解題を行うあたりも、ファイナルファンタジータクティクス自体が、「アラズラム・デュライ」という主人公ラムザに関わった人物の子孫によって編まれた歴史書に基づいた語りであるのと相似形なのが興味深い。このあたりも、虚構内虚構ではありながら、物語構造の範型(ここで言えば歴史の語られ方・造られ方)のようなものがおさえられていて、その点でも非常に高い完成度を誇っていると言っていいだろう。

 

ところで、相似形と言えばウイユヴェールの他にもADV形式のミニゲームは作中に存在しており、

 

 

 

 

 

 

「エナビア記」はその一つだ。 こちらはウイユヴェールとうって変わり、少しおませな主人公の淡い恋心を題材とした小噺のようにも見えるが(というにはいささか暴走が過ぎる気もするがw)、先述したウイユヴェールの訳者あとがきでは「原本の一部は痛みが激しく、他の訳やエナビア記などの正史を頼りに補うしかなかった」とわざわざ言及されている点を鑑みると、両者には特別な関係があり、また製作者がそれを意識させる意図があると読み取れる(まあこのような少女の妄想&暴走話がどうして「正史」に記録されてるんだ?という突っ込みはさておきw)。

 

そしてこの関連性の暗示を念頭に置くと、なるほどエナビア記の最後には「これからは革命の時代」と記されており、これが王族派に対するラガ派(まあ「民主共和派」といったところか)の台頭を指しているものと思われるが、とはいえこれだけなら、せいぜい(ほぼ)同時代の出来事を扱ったというだけで、参考文献以上の認識にはならないだろう。

 

しかし、そこからさらに踏み込んでいくと、例えば「アルベルト」という名前がウイユヴェールの父として登場し(これはウイユヴェールの上司であるポワンソリーが言及するだけで人物自体は出てこない)、エナビア記でも最後で一家の父親の名が「アルベルト」であると述べられているし、またウイユヴェールによればその腹違い姉の名前が「マリア・ノボセリック」であり、エナビア記における長女の名が「マリア」であることも踏まえると、どうもウイユヴェールはエナビア記の主人公たる「ルーシア」に措定できる可能性が高そうだ、というところまではわかる(まあこう考えると、パブロが言う諸々の軽薄なセリフは幼少のルーシアと相似形をなしている部分があり、彼女はあれらのセリフを聞きながらかつての自分を重ねて共感性羞恥で内心悶絶していたのだろうかw)。

 

両作のゲーム性自体もそれなりに高い上、こういう史料批判的な遊びまでできるように作っているのかと舌を巻くところだが、さらには、両者に密接な繋がりがあるとすると、ウイユヴェールという物語の持つ陰影がさらに増し、その内容をいっそう楽しめる点も強調しておきたい。

 

というのも、ウイユヴェールという作品の難点を一つ上げるとするなら、ウイユヴェール自身の行動原理が見えづらい、というものがある。なるほど確かに、周辺の不穏さとパブロ(とのやり取り)の能天気さのギャップが生み出す異化効果、そして少し選択肢を誤れば容易に処されるという緊張感が加わることで、つい攻略や謎解きにのめり込んでしまう作品ではあるが、その一方で話の展開自体は、スパイものや二重スパイといった形で割と世にあふれているタイプのものではある、というのが個人的な評価だ(まあ見せ方が上手いので、そこまで気にならないけど)。

 

しかし、ここにエナビア記を、ウイユヴェールの幼き頃のルーシアの記録として重ね合わせると、非常に複雑な陰影が見えてくるのではないか?まあまずは、「クールビューティーかのように描かれている暗殺のプロの女性が、幼少期はこんな暴走&妄想少女だったのかよw」と苦笑するところからのスタートだろうが、エナビア記の最後では、ルーシアが淡い恋心を抱いていた庭師の息子カートとの関係が、痛ましい結末で幕を閉じることがうかがえる終わり方をしている(著者=ルーシアはその悲劇を直接的に描かないことで、あえて良き思い出として記録にとどめようとしたことが編集後記からはうかがえる。てか自分で「熱いベーゼが~」とか書いてて悶絶しなかったんだろうかw)。

 

これらの記述からは、そもそもウイユヴェール(=ルーシア)が身分に分け隔てなく人と接するタイプの人物だったことが見て取れるし、それと同時に、彼女のある意味で情熱的な、または冒険主義的な側面をうかがい知ることもできる。それは彼女が諸事情により王族派のトップに近い立場にいながら、スパイとして入り込んだラガ派のあり方に引き寄せられやすい面をもっていたこと(「ブラックやウイユヴェールがラガ派に毒された」という王族派側の言及は複数回登場する)、そしてまた、王族派の腐敗や民衆の窮状を見ることで、王族派の走狗となることに迷いを抱えた=ある種の危うさを孕んだブラックに惹かれた事情について、単に「敵対するラガ派を抑えるという王族派としての合理主義的思考」だけに基づいていたわけではないことを暗示していると見ることができそうだ(彼女が単なるお話のコマとしての存在ではなく、彼女なりの情念やドラマツルギーの必然があったことがエナビア記によって補完される、とでも言えようか)。

 

そしてこの点が理解されれば、冷静に考えると謎めいた部分、すなわち、「彼女はなぜ危険を冒してまでパブロから秘密を引き出すという王族派側としての仕事を敢行しながら、その秘密の正体=デュシャンへの接触=王族派からの解放というカードを認知するや、その遂行を迷いなく了承したのか」という部分も理解が容易になる。

 

あくまで話の筋を表面的に追っていく限りでは、ウイユヴェールがなぜ組織から消される危険を冒してまで、パブロとのやり取りを続けたのかを知ることは難しい。王族派が揶揄するように彼女がパブロにほだされたのでないことは、実際の二人のやり取りを目の当たりにしているのであり得ないことがわかるとして(そもそもメロメロに見えるパブロでさえ時折彼女への殺意が芽生えると述べているほどだし)、ではなぜ彼女はそのような行為を継続したのか?

 

もう少し抽象的に言えば、ここにまつわる彼女の情動的部分や行動の必然性が見えてこないがゆえに、話を追いかけている段階でこそ不自然に感じないものの、後で思い返してみると、どうして巨大なリスクを背負いながらパブロを殺すこともなく、その話に付き合っているのかが今一つしっくりこないのである。彼女が暗殺のプロというのはもちろん、ブラックすら手駒のように使ってその代表選出をお膳立てする手腕からしても(しかも彼の片足を奪ったのは彼女自身だ)、極めてサバイバル術に長けた戦略的思考の持ち主で、わざわざ自らを死地に投じるようなタイプには感じられないからだ。

 

ゆえに、繰り返しになるが、彼女がパブロの秘密の危険性をかぎ取った上でなお薄氷を踏むような茶番(というのは何とも矛盾した表現だが)を重ねていたのだとしたら、デュシャンへの王族派暗殺依頼という秘密に到った時点でその成就を邪魔しなければおかしいし(=王族派としての必然的行動)、逆に秘密を知ってなおその成就を見届けようとするなら、彼女をそうさせる情念とは一体何なのかが疑問に思えてくるのだ(注)。

 

まず、暗殺の成就がラガ派復活による再びの混乱・混沌を意味することは、デュシャンが指摘するまでもなく彼女も認識している。それがブラックの遺思だったとしても、ラガ派の反乱が起こればスパイだった自分たちの立場も危うくなりうるし(ほぼ確実にラガ派初代党首のキングを謀殺してもいるので)、また王族派情報部の首魁たちが死ぬことでウイユヴェールたちの家族が半ば囲われた人質の状態から解放されるとはいえ、それは有力貴族の立場にいるであろう主人公の周辺人物たちが安穏と生きられることを意味するのかは疑問である(まあこの辺は、歴史的事実としてのイギリス内戦やフランス革命ロシア革命などの結末に私の思考が引きずられてしまうのが原因かもしれないが)。要するに、繰り返すが、王族派としての合理的思考によるならば、デュシャンの暗殺劇を成就させるウイユヴェールの行動は、どうにも説明がつかないのである。

 

しかしここで、前述したようにエナビア記で描かれるルーシアの姿をその人物像の淵源として読み込むと、また大きく印象が変わってくる。つまり、そもそも彼女はカートやその父親含め貧しい人々にも分け隔てなく接する行動を取っており(諸事情あるとはいえ次女アリシアとは対照的だ)、何となれば駆け落ちして貴族の生活を捨て、そのような人々と同じ暮らしをすることすら考えていた(まあこの辺りはナロードニキよろしく、実態の厳しさを知らないがゆえの認識の甘さではあるだろうが。というかウイユヴェールとシモーヌという名前って、組み合わせると裕福な家に生まれながら貧しい人々の救済についての書を著し続け、若くして亡くなったシモーヌ・ヴェイユっぽくもあるよね)。

 

そのようなスタンスは、カートとの関係性においては破綻を迎えたものの、わざわざ自身のかつての行動を懐かしく記録に残す程度には、彼女の中で否定的に捉えられていなかったことがエナビア記の編集後記からはうかがうことができる(ただし、同書の該当箇所をルーシアがいつ頃書いたのかは不明)。詳細な時期の前後は不明だが、おそらく長女マリアが嫁いだノボセリック家との関連もあり、アルベルト家の人々は王族派の中で高いポジションを得ることになったと予測できる(監督者ポワンソリーは、ウイユヴェール=ルーシアに対して父のアルベルトを称賛する一方、母のマーシアを嘲笑しているととれる発言をしている。そこから推測するに、アルベルトはそれなりの名家の長で、先妻=マリア・アリシアの母はそこに見合うと認知される家柄の母だったが、後妻=ルーシアの母はそうではない、とみなされる結婚だったのだろう。想像をたくましくすれば、次女アリシアが病弱ながら奔放な人物になったのは、箱入り娘として大事に育てられすぎることへの反発と、病に伏せる母と接触できないことによる半ば放任状態が要因かもしれない。とすると、詳細こそ違うが、『秘密の花園』の主人公的な成長過程を経てあのようになったとも考えられる。まあエナビア記で庭の世話をしているのはルーシアだから、その世界は秘密の花園で描かれた要素を色々なキャラクターに分解して採用していると考えるのがよいだろうが)。

 

このような変化の中で王族派の中心人物たちと接触するうち、その腐敗などの実態を目の当たりにする一方、嫁いだマリアは事実上の幽閉状態に置かれていたというから、彼女(ら)を人質としてウイユヴェールの行動は大きく制限され、王族派の利益代表者として敵対するラガ派を壊滅させるべく行動していたものと考えられる(まあこの部分は彼女自身そう述懐しているので確実だろう)。しかしラガ派の中で行動するうち、パブロの説得やブラックの変化がウイユヴェールのルーシアとしての原体験と結びつき、それが彼女の中で小さくない波紋を呼び起こした。それがブラック殺害で無視しえない大きな波紋となった結果、それを精神的に処理しきれない彼女は、自らの気持ちに整理をつけるためもあり、パブロの「創作」に根気よく付き合った。結果として、ブラックがデュシャンとの交渉をほぼ成功させていた=彼が単なる理想主義や理念を語っていたのではなく、ラガ派を含めた真の社会変革と、ウイユヴェールの救済を心から願って行動していたことを知り、たとえその先に地獄が待っていてもそこに賭けることに決めた、ということなのだろう。

 

このように考えてみると、いかような分岐にもなりうるという物語演出上の都合も去ることながら(ただ、それゆえにこそほぼ全てが死亡エンドという共通項によってウイユヴェールとパブロが窮地に立たされていることもわかる)、彼女自身が大きな揺らぎの中におり、それがパブロとの長い邂逅という現象を生み出していた、とみることができそうである(そしてその行動を、組織はこれまでの彼女の行動と照らし合わせながら、それが忠誠のための骨折りなのか、はたまた重大な反逆の予兆なのかを吟味し、ほぼ後者だろうと判断していたのが物語冒頭の状況だったと言える)。

 

当時プレイしていた頃は、二つを別々の物語として楽しんでいて、両者の連続性や比較対照という意識はなかったので、25年以上の時を経てこのような気付きを得たのはなかなかに興味深い出来事だった。

 

なお、今回の話はあくまで虚構内虚構の人物造詣や物語的必然(ドラマツルギー)についてであるが、このような想像力のあり方は前回の記事で述べた「歴史上の人物の行動を、その個人的パーソナリティーとして捉えやすい理由はなぜか?」という話にもつながるものとして、注記しておきたい。

 

以上。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注)
少し補足的な話をしておくと、ここにはサウンドノベル形式でプレイヤーが選択肢を選びながら真実に迫っていくマルチエンディングの作品であるという事情は大きく関係しているだろう。すなわち、彼女自身の行動をプレイヤーが選ぶわけだから、そこにやたら彼女の思考が描かれると、それはネタバレに繫がるのはもちろん、様々な行動を選びうる仕組み上矛盾が生じてしまう。よって、実は複雑な背景を持ちながら、その実「白紙の主人公」的に内面を深く描かず、ある程度どのような行動でもそれなりに必然性があるように演出した結果として、彼女自身の行動原理がわかりにくくなっている、ということである。