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疑り深いヤツになっちゃったのは~週刊誌のせいじゃないお前のせいでしょ~♪でも、真実を知ることが、全てじゃな~い♪

回向院にて歴史的人物たちの墓に参る:幕末とナショナリズム・テロリズム


 

 

 

南千住の「オンリー」という喫茶店でパンケーキを食ベた後、腹ごなしに歩くことにしたらすぐ近くに回向院を発見。こちらは小塚原で刑死した人々を供養するために建てられたのが始まりで、幕末の吉田松陰や橋本佐内、「義賊伝説」のある鼠小僧や二・二六事件の中心人物の一人磯部浅一らの墓がある。

 

 

 

 

 

 

こちらは「吉展ちゃん事件」と呼ばれた誘拐事件の犠牲者を供養する地蔵。

 

 

 

 

 

 

来訪者もそれなりにいるためか、歴史上の人物が一般の墓と区別できるよう区切られている。

 

 

 

 

 

 

墓地や霊園というものは、元々独特な存在感というか「磁場」みたいなものを作っているような印象を受けるが、周囲が普通の住宅街な上に線路まで通っていると、その異様さがいっそう引き立つように思われる。

 

 

 

 

 

 

こちらが吉田松陰の墓。もっとも、その遺体は高杉晋作らによって現在の世田谷区へと密かに移され、そこに顕彰のため松陰神社が建てられたので、ここは墓石が遺されているだけだ。

 

 

 

 

 

 

こちらは開国派として警戒され安政の大獄にて処刑された橋本佐内のもの。

 

 

 

 

 

 

 

このように、立派な石碑まで残されている。

 

ところで、幕末の人物たちについて言えば、歴史認識とその変遷が想起されて興味深い。例えば前述の吉田松陰もそうで、そもそも明治維新後しばらくの間は、彼の言行がテロリズムとその有効性として(も)評価されていた節がある・・・と聞いてそんなバカなと思う向きは、筒井清忠『近代日本暗殺史』などを参照して当時の世相を調べてみるとよいだろう(このあたり赤穂事件とその評価や「忠臣蔵」人気なども根底にあるが、それについては後述)。

 

しかし、司馬遼太郎らの作品を通じて、幕末の志士に大きな影響を与えた思想家としてフォーカスされ、そのテロリズム要素はいわば「国を憂う激情家としての情念・エネルギーの横溢」に転換して描かれ、かかる認識が広がっていったように思われる(このような歴史人物・組織への眼差しの変化は、新選組などにも当てはまる)。それが今日になって、幕末の志士たちの行動を「テロリズム」として冷静に評価する動き(全否定ということではない)が徐々に広がってきているように思われるが、それが私には少し不思議に感じられる点である。

 

もちろん、そこには思想や実態の研究が進展したこともあるだろう。すなわち、橋川文三片山杜秀筒井清忠中島岳志らの分析により、その思想のあり方がナショナリズムテロリズムといった要素分解とともに、後世への影響関係を含め体系立てて記述されるようになってきた、ということである。

 

とはいえ、それでも現在の方がまだ幕末の人々の行動を冷静に批判・分析する眼差しが育ってきていることを私が不可思議に思う感覚は変わらない。例えば、司馬の描く高杉晋作の「革命」に関する言動をみてみると、それはたとえ日本を焦土にしようが最後まで戦うといった趣旨の発言であり(そこでは民草の事情は勘案されない)、そのような姿勢はまさに戦前の軍部の本土決戦思想と相似形であり、ゆえに彼の言動の中にテロリズムや誇大妄想を読み込むことは、むしろ戦前の記憶が生々しかった当時の方こそ容易かったのではないか、と思うからだ。

 

ちなみに坂本龍馬を主人公にした『竜馬がゆく』は1960年代前半、高杉を主人公にした『世に棲む日日』は1960年代後半であり、あの戦争から20年ほどしか時が経っておらず、当然戦争を直に体験した人間も多く記憶は相当生々しかったに違いない。だとするなら、司馬たちが描く幕末の激動やそれへの熱狂が、15年戦争満州事変~太平洋戦争)へとなだれ込んだあの時の構造と一体何が違うのか、ぐらいは考えそうなものだと思うのだが…

 

とここまできて、私はこのような発想法には2つの危険性があるなと考えた。
一つは、そもそも幕末の日本と15年戦争を始めた頃の日本では状況が大きく違うこと。鎖国(部分的海禁政策)を続け、あくまで極東の島国でしかなかった幕末と、すでに日清・日露・第一次大戦戦勝国として、不平等条約の解消はもちろん、国際連盟常任理事国にすらなっていた当時では、日本の国力も立ち位置も大きく異なることは言うまでもない。

 

なるほど確かに、後者の状況においても、1920年代のワシントン体制は日本封じ込め政策であったし、そのような「外圧」を幕末の日本と重ねる向きもあったかもしれない。さりながら、そもそもこのような動きが出てきたのには背景があって、まず日本は日英同盟を理由に第一次大戦へと(イギリスからやんわりと断られたのに)参戦し、かつそこでドイツ領であった山東省獲得に動いて対華二十一箇条を袁世凱政府に突き付けたことを鑑みれば、日本の中華地域への野心は余りにあからさまであって、これが強くアメリカなどを刺激する事態となった。日露戦争後に満州の開発を巡ってアメリカとの関係が冷却化したことも鑑みると、当時の日本首脳が山形有朋のような例外を別にして、このような事態を想定しなかった(または甘く見た)ことは、むしろ驚き呆れるほどである(まあ1917年には石井・ランシング協定で中華地域への権益についてアメリカと協定を結んでいるので、何もしなかったわけではないのだけど)。そしてこのような列強による警戒心の高まりが、九か国条約による対華二十一箇条破棄への圧力(ここで石井・ランシング協定も破棄)、四か国条約による第三次日英同盟破棄という結果を生み出していったわけだ。

 

幕末の日本が置かれた状況というのは、清のアヘン戦争不平等条約締結などからもわかるように、植民地化されるか、そうでなくても本土が深く蚕食されるかというものであり、国際情勢を冷静に見て国防的対応という側面が極めて強かった(神国思想及び鎖国による情報の乏しさが結びついたナイーブな攘夷思想を全肯定するつもりはさらさらないが、そういう反応が出る必然性は十分あったという話)。

 

これに対し、多くの血を流して獲得した(がゆえにこだわるのは理解できる)とはいえ、朝鮮半島満州での権益拡大を自ら仕掛けていった1910年代、そしてそれに対し特にアメリカが警戒心を強め封じ込めの動きが強まった1920年代を経て、世界恐慌と社会不安から対外拡大とガス抜きに希望を見出して1931年に満州事変を起こしていった状況を同列に語ることは、明らかに無理がある(この辺りが、ペリー来航から太平洋戦争に到る流れを国防意識・被害者意識で一貫して語ることの無理筋さともつながる)。

 

そしてもう1点。
じゃあ同列に見ることはできないんだから、別に問題はないのでは?と見えるかもしれないが、どうもそう単純な話ではないのではないかという話。例えば、熱狂を持って語られる維新の志士たちの姿に陶酔することを通じて、「日本はこんなにすごかった!」「日本はこんなに頑張った!」という形で敗戦によって打ちひしがれた世相に自己肯定感を与えたこと(まあこれは『坂の上の雲』の方がわかりやすいか。なおこれが行動経済成長期=日本の復活とパラレルなのは言うまでもない)。そしてまた軍国主義国家神道の否定を通じて「お国のため」的な発想は(表向きは)忌避されるようになっていたが、そのような精神性に間接的なお墨付きを与えたことが想起される。小熊英二らが「<癒し>のナショナリズム」と評した1990年代の「新しい教科書をつくる会」の運動に先駆けた、過去の成功譚を用いたアイデンティティ復活の潮流だったと見る方が適切なのではないか。

 

なるほど15年戦争に雪崩れ込んだ戦前日本に批判的な司馬自身は、おそらく維新の志士と昭和維新を掲げた者たちを直結させることを防ぐために、吉田松陰天皇主義を極めて控えめに表現したり、あるいは暗殺を行った人物を低く評価するような記述を意図的に入れてはいる(そしてそのような描写は、幕末のナショナリズムテロリズムを冷静に分析することを妨げる効果を持つ)。しかし、縷々批判していることだが、戦前日本=悪とは教えられても、戦前日本の構造的問題についてはまともに教わらない(そもそも天皇=絶対権力者のような理解がなされている時点で何も理解されていない)がゆえに、幕末は「国を憂いて行動し、成功した革命」、昭和戦前は「国を憂いて行動したが、失敗した革命」というような、両者を情緒的に同一視する思考を生み出したのではないか、とも思えるのである。そしてそのようなバイアスは、15年戦争とそこに到る加害者性という要素を覆い隠し、それを幕末の国難に引きつけ、被害者的に理解する発想の素地を作りだしたのではないか、と。

 

ちなみに昭和維新を訴えた人々や、その前景を成す草の根右翼の思想において、幕末の志士たちのナショナリズムテロリズムは(赤穂浪士の「仇討ち」などと合わせて)しばしば参照されるものであった。しかしそれにもかかわらず、「忠臣蔵」や幕末関係のドラマが戦後長らく風物詩のように消費され続けていたことは、幕末のテロリズム的側面を維新成功の熱狂が覆い隠していたこと、そして戦前の構造的・体系的理解の欠落ゆえに、その幕末と昭和維新のメンタリティ的類似性などがよく理解されていなかったことを示しているように思われる。これは喩えて言うなら、フランス革命をただ王政打倒と共和政樹立の出来事として熱狂し、恐怖政治による処刑の嵐や、総裁政府~ナポレオン戦争という新たな動乱の創出といった側面を無視または軽視するようなものであろう。

 

もっとも、このような予測がある程度当たっていたとして、かかる錯誤を司馬など人気の歴史小説家たちに帰するのはあまりに酷な話ではあろう。そこには、「戦争は悪だ」とか「軍部の暴走」なるものを訴えはしても、幕府的なものが現れぬよう意図的に作り出された戦前の分権的仕組みや(だから暴走が止められない)、マスメディアによる売り上げのためのプロパガンダ合戦(わかりやすい物語の提示と大衆の熱狂)といった構造的問題の解析やその説明を怠った教育にも、大いに責任があると言わざるをえないからだ。

 

いやあるいは、そうして「背景が明確にされないまま、ただ罪悪感だけを植えつけられる」ような教育や社会通念がまかり通っていたからこそ、司馬のような小説家の描く幕末や明治維新の成功(『竜馬がゆく』~『坂の上の雲』の時代描写)に多くの人が熱狂し、それが今でも社会に影響を与え続けている、と評価すべきなのかもしれない(私はこのような社会通念や歴史認識の分析が重要だと思うからこそ、それを偽史陰謀論疑似科学とも並行しながらしばしば取り上げたりもする)。

 

 

 

 

 

 

一番手前が鼠小僧の墓だが、目を引くのは一番奥の異様な形の墓石だろう。こちらは「腕の喜三郎」と呼ばれた人物のもので、抗争の際に片腕を負傷し、それが見苦しいからと舎弟に鋸で切り落とさせたという逸話を持つ侠客だ。矢傷の手術を受けながら碁を打っていた関羽の話は、その豪放さを強調するためのエピソードだろうが、それとの類似性を感じさせる逸話である。

 

 

 

 

 

 

ちなみにこちらが一般のスペース。新しい墓石も多いとはいえ、線路(常磐線)とマンションに囲まれている景観は、やはり一種独特な雰囲気を醸し出している。

 

 

 

 

 

帰り際にもう一枚。杉田玄白前野良沢の名前が出てきて刑場に医者??となるかもしれないが、刑死者たちの身体は解剖に回された結果、『ターヘル・アナトミア』の内容検証につながり、それが『解体新書』発行に結びついたことが顕彰されている。

 

少し前、ご献体を前に物見遊山のような写真を撮って大いに批判を受けるという事案が日本であったが、たとえ社会に害悪をなしたとされ刑死した罪人の身体を活用するのでも、こうして敬意を払われている(払うべきな)のだから、いわんや衆人をやというところだろう。

 

そんなことを思ったところで見学終了。最後に手を合わせて回向院を後にした。