格ゲーの話はまだまだ山ほどあるが、そればかり書いていると他のものを忘れてしまいそうなので、久しぶりにひぐらしの記事を載せることにしたい(完全にネタバレの内容なので注意)。
前回は、「ひぐらしのなかせ方」における作者の発言からひぐらしと現代社会のアナロジー(近代からポストモダン)を指摘し、さらに疑いと監視が惨劇を生むという構図を鬼隠し編の展開から明らかにした(しかし一方で、ひぐらしが信頼による惨劇をもしっかりと描いている点に注意する必要がある)。
さて、もし初めてこのブログを見る人がいれば、いきなりリンクの連発で面食らったかもしれないが、以下の覚書の分量が少ないことにも驚くかもしれない。これには理由があって、祭囃し編発売の直前(今からおよそ二年前)に皆殺し編の二回目をプレイした時、かなりの程度書いてしまったのだ。とはいえ、短い覚書を載せるだけというのは何とも味気ない、というわけで、今までとは趣向を変え、当時の断片的にアップしたレビューをテーマごとに集成するとともに、それにコメントをつける形式でレビューの代わりにしようと思う。では、次回以降そういう形にするとして、今回は覚書を載せるにとどめよう。
<皆殺し編覚書>
■梨花を山狗4人が警護…入江が上京するときより厳重
ここでの説明を見る限り、いくら「番犬」という専門の部隊が存在するとはいっても、「山狗の専門は肉弾戦ではなく情報戦=子供にも遅れを取ることがありえる」的な祭囃し編の言い分にはムリがある(戦闘力の問題)。
■山狗の最大の仕事は急性発症患者の誘拐
「表向きは造園業者の隠れ蓑を持っていて、村の中を出入りしながら、異常な事件の発生を未然に防いでいるのである」とのこと。原作にあったっけ?
■歯形捏造は「推理小説的な荒技」
この説明も原作にはなかったような気がする。突っ込みが多かったのだろうか。
■山狗たちに神社へ運ばれるまでの梨花と羽入の会話
「多分次の世界では覚えていない」「ボクが教えますから」→祭囃し編へ
■「奇跡の」あり方
赤坂が来た時、私の運命を破るのは英雄的な個人の力によるものだと信じていた。でも結局、それは誤解だったわけだ。奇跡は個人が起こすんじゃない。全員で起こすもの(ひぐらしの「奇跡」の価値などを参照。今見るとかなり酷い記事だが、澪尽し編批判の一角も成すので一応リンクを張っておく)
■以下は果たして事件の真相が読めるのか、という問題に関連したもの
○1
終末作戦を、中心にいたはずの富竹や入江、そして梨花さえ読めなかったということ(もちろん、読めないからこそ惨劇から抜け出せないわけだが)。
→そもそもプレイヤーに詳細の読みは期待していない
○2
動機なんて、犯人が打ち明けるまでわからない。それは他人が想像して至ろうという時点で無意味だ。だから、動機がわからないから鷹野が犯人ではありえないという入江の考え方はきっと間違っていた。
→推理の仕方へと繋がる?
○3
大石が相手を見誤る→裏返せばプレイヤーが読めないのも当然
以上で描かれているのは、国家レベルの陰謀という相手の大きさに付いて行けず、惨劇に飲み込まれていく人々の姿だが、ある意味でそれは皆殺し編の展開に付いていけないプレイヤーの姿そのものであるようにも思える。その意図を読んでみるなら、急展開についていけない鬱憤を作中で右往左往するキャラクターたちに投影させることで逸らしつつ、ついていけないのが決して不自然でないことを暗示している、のかもしれない(まあすぐに適応してしまう圭一たちのオカシな反応とバランスを取るため、という部分もあるだろうが)。
■ガス大量殺害時の鷹野の朗読微妙
あそこは皆殺し編最大の見せ場の一つと言ってもいい。もっと恍惚として厳かに謳い上げなければ退屈なだけだ。