ゴルゴンゾーラ×ハチミツ>魔法の白い粉

疑り深いヤツになっちゃったのは~週刊誌のせいじゃないお前のせいでしょ~♪でも、真実を知ることが、全てじゃな~い♪

もし安定した日常がなければ、

奇矯な行為に興ずることも難しい。

 

…はいどうも、ゴルゴンです。これだけ多くの記事を書いていると、アホな記事と固い記事の温度差で風邪を引きそうだ的なことを言われたりしますが、これには背景がありんす。つまり、安定した日常(というか社会)があって初めて、奇矯な冒険的行為ができると思っているのでごわす。

 

何か酔狂なことをやっているようでも、それを安心してできるのは、生活や社会が安定しているおかげであって、ゆえにそれをやり続けるためには、そもそも今の社会がどういう構造で成り立っているかを知っておくのはメリットがあるんじゃないかと。

 

前に極限状況の話で、「そういった状況においてもなお、自分が日常の時と同じように思考・行動できると思っている人間は端的に言ってアホだ」という趣旨のことを書いたことがあるけど(まあ「正常性バイアス」とか色々な)、要はそれくらい人間てのは環境に左右される生き物であり、「自分は何者からも自由な状態で発想できている」なんてことはありえん、ということだっちゃわいや。

 

だから、というわけではないが、自分は基本的にアホなことばっか考えて生活しとるんじゃが、それと同時に「じゃあ何でこの仕組みはこうなっているんだ?」「これはなぜアホなことだと考えられているか?」という疑問も同時に湧いてくるわけで、喜怒哀楽を感じながら解体・分析も並行できるなんて一石二鳥じゃないか、と思ったりする。

 

まあ最近はカタい話が多くなりすぎてあんまし色々な極の話を書いてる感じでもなくなってきとるのは自覚しており、もうちょっと柔軟にいけんもんかとは考えておりも政夫なわけだが、これは事情というか必然性がありまして、ちょっとした感想やアホ話ってのは大抵その場の思い付きで、そういうのっていちいちメモとかもよーせん。

 

で、するとそれらは間もなく意識の澱に沈んでいくけれども、一方で、何か抽象的な話や複雑な話を書こうとする場合は、筋立てを作らんとアカンのはある程度最初から想定できるので、断片的なメモから始めて、それが徐々に覚書としてパッチワークのように形をなしていくわけですよと。

 

結果として、膨大な覚書は残るが、感想とかアホな話は形に残らないので、覚書の整理・統廃合・完成だけが進み、よって表に出るのはそちらだけという現象が起こる、ということですな(・∀・)

 

まあこういう前段階をある程度反映したのが「フラグメント」なわけだが、最近はめっきり更新が止まっているので、もはや覚書の山積で夢の島もできそうだぜって状態であります( 。∀ ゜)

 

引っ越しの暁には、ちょっとそういう投稿スタイルを見直す機会にしてみるのもありだなあと思っている今日この頃。