ゴルゴンゾーラ×ハチミツ>魔法の白い粉

疑り深いヤツになっちゃったのは~週刊誌のせいじゃないお前のせいでしょ~♪でも、真実を知ることが、全てじゃな~い♪

終末の過ごし方~「ズルい」設定~

先日私は、「終末の過ごし方」に関して、早くも二日目から不治の病のアナロジーを持ち出すことによって、一見すると不自然に感じられる作中人物の行動の背景(精神性)を極めて適切に説明していると述べた。

ところで、この作品における終末の設定ないしは位置付けについて、「ズルい」と評する人がいるかもしれない。たとえば、「終末そのものに関して一切説明しないのは主人公たちのような一介の市民が置かれた状況を体感させるものとして適切なのはわかるが、一方で終末が訪れることは絶対的・不可避なものとして描いており、結果として極限状況をサバイブしようとする人間を不当に貶め、主人公のような日常を続ける人たちに偏った描写になっている」といった具合に。

 

私はその見解が一理あると思うとともに、故池田晶子の『さようならソクラテス』の次のようなやり取りを思い出す。

 

患者
患者が死りたいのは、自分のがんが治るものなのか、治らないものなのかということなのです。

ソクラテス
そりゃ、医者の方だって同じなんじゃないか。この患者のがんは、治るものなのか、治らないものなのか。

患者
医者にそんなこと言われたら、いったい患者はどうすればいいんです。

ソクラテス
君は、どうしてそんなに医者のことを頼れると思っているのかね。

患者
だって、医者は医者じゃないですか。病気を治すのが彼らの仕事じゃないですか。

ソクラテス
彼らの仕事がそうだって、彼らは僕らと同じ人間じゃないか。わかるものはわかるが、わからないものはわからないのだ。人間には、わかるものしかわからないのだ。それは、とおーい昔からそういうことになっておるのだ。僕はそれを無知の知と言った。

患者
私は、がんの話をしているのですが。

ソクラテス
そうだよ、がんの話だよ。治るものは治るし、治らないものは治らない。治るものしか、治らない。こりゃあ万古不易の真理じゃないかね。

患者
がんと闘うことに意味はあるのでしょうか。

ソクラテス
治るものなら、闘うことには意味はないだろうし、治らないものなら、やっぱり闘うことに意味はないだろうね。

患者
要するに、諦めろと―

ソクラテス
いや、僕はそんなことは言ってない。「闘う」とか「諦める」とかいうそのこと自体に、意味がないと言ったのだ。だって、いいかね、がんってのは、治るものは治るし、治らないものは治らないんだろう。

患者
ええ。

ソクラテス
治るものが治るとわかるのは治ったときだし、治らないものが治らないとわかるのは、治らなかったときだ。

患者
ええ。

ソクラテス
つまり、治るか治らないかは、そのときにならなければ、誰にもわからないわけだ。

患者
ええ。

ソクラテス
それなら、そのときにならなければわからないことを、どうしていま諦めることができるものかね。そのときにならなければわからないことについて、どうしていま闘うか闘わないかを決めることができるものかね。君はいったい、何とどんなふうに闘うつもりでいるのかね。

患者
―――――

ソクラテス
こんなのは、べつにがんに限った話じゃないとは思わんかね。先のことがわからないのは、がんであろうがなかろうが、同じではないのかね。