あなたは、こんな光景に出合ったらどう思うだろうか?
電車の中で席に座っている小学生と立っている30代のサラリーマン。するとサラリーマンが、小学生に声をかける。「子供のうちは楽をせずに身体を鍛えておいた方がいいぞ。」すると小学生が「体育で疲れたんで座ってるんですよ」と答える。サラリーマンはそれに対し、「そんな事じゃ強い身体になれないぞ!」と一括する。すごい剣幕に思わず席を立つ子供。そしてその席に、サラリーマンが座る。
私は少なくとも、このサラリーマンを(同年代としても)恥知らずだと思う。なるほど彼は体力的・精神的に疲れているのかもしれないが、子供を体のいい言葉で上から目線で叱りつけ、その実自分の座りたいという欲求を満たそうとする行為は浅ましい以外の何物でもないからだ。もし仮に、そんな人間が自分を「大人だから」「働いているから」という理由で敬えと言ったとしたら、果たして周囲の人間は敬意を払うだろうか?私は全くそう思わない。
さて、次に紹介するのは実際の出来事である。優先席に座っている妊婦に対し、老婆が「座っていると元気な子が産めない」と言い、立っていると辛いという妊婦を「そんなんじゃ元気な子を産めない」と一喝して席を立たせ、そこに座った。それを女子大生が「自分が座りたかっただけじゃないのか」と非難し、別の老人が「お年寄りに向かってその言い方はなんだ!」と食って掛かり、そこに別のサラリーマン風男性が「その子の言っていることは正しい」と反論し、車内が騒然とした雰囲気なった、とのこと。
私はこの高齢女性についても、またそれを非難した女子大生に食って掛かった老人についても、全く敬意を払うに値しないと考える。これについて、「価値観の違い」だとする意見があるようだが、これも私には疑問である。たとえば、次のような状況であれば百歩譲って理解できる。すなわち、高齢女性が「申し訳ないんですけど、身体の調子が悪いので席を譲ってくれませんかね」と言い、それに対して妊婦が断った。それを高齢女性ないし他の老人が非難して「老人を先に席に座らせるべきだろう。確かに妊婦も大変だろうが、そもそも妊婦は身体を動かした方が云々」と言った、というような。それなら、純粋に妊婦と老人のどちらを優先すべきかという価値観の相違だというのは一応納得できる。
しかし今回のケースは違う。というのは、「座っていると元気な子が産めない」と相手が断りにくいように理屈付けをして、しかも上から目線で語っている。無礼であるのはもちろんのことだが、何よりそのやり口が姑息で浅ましい。そのような振る舞いに対して、「お年寄り」だからという理由で正当化されても全く説得力がない(冒頭の例で挙げたサラリーマンが、仮に子供と違って汗水垂らして働いていようと、その浅ましい言動によっておよそ敬意の対象たりえないのと同じだ)。そもそも、敬意というものはその知性や人柄にのっとって構築されるものであって、単に「大人」だとか「老人」ということによって醸成されるものではない。ひとり「若者」と言っても思わず襟を正さずにはいられない人格的に陶冶された人物もいれば唾棄にすら値しない輩もいるのと同様で、思わず敬意を払わずにはいられない優れた老人もいれば、一体6,70年も何をして過ごしてきたのかとあきれ返るような連中もいるのである(試しに自分の同年代を見渡してその人たちがすべからく尊敬に値するような存在かを考えてみれば、思い半ばにすぎるだろう)。よって、敬意を払うべき対象であると自認するならばいっそう、(nobles obligeではないが)浅ましい立ち居振る舞いは慎むべきなのである。
今回のケースは浅ましい老人の一例であって、これを高齢者全体に適応するのは無礼に無礼で返す畜生に等しい行為だが、ともあれ、「シルバーデモクラシー」が支配的となった社会状況がいかなるものかを予見させる出来事とは言えるのではないだろうか。