ゴルゴンゾーラ×ハチミツ>魔法の白い粉

疑り深いヤツになっちゃったのは~週刊誌のせいじゃないお前のせいでしょ~♪でも、真実を知ることが、全てじゃな~い♪

今なぜ「空気」なのか

「みんな仲良くしよう」という、発言者としては社会をより良い状態にしようという志向が、むしろ価値観の多様化した社会において害悪になっていると「『調和』と『地雷』」で指摘した。その記事の目的は単にバラバラな状態こそが正しいといった主張をすることではなかった。社会状況の変化への眼差しもコミュニケーションへの断念を経ないナイーブな「調和」が、「空気」という言葉によって社会を生きにくいものにしているのではないか、というのがその趣旨である。


もちろん、例えば欧米のようなコミュニケーションや思考が広まるのを期待することはできない。元々の土壌が違いすぎるからだ。またこれまでの文化流入の状況(=深く考えず色々取り入れた結果、雑多なものが共存する「ガラパゴス」的状況となる)からすれば、枠組み(前提となるもの)を考える力が発達しないのは必然的である。まあこれは一朝一夕でどうなるものでもないが、少なくとも価値観の多様化が不可逆であること(=過去には決して戻れないこと)を意識した上で、「調和」のあり方を考えていく必要はあるだろう。ノスタルジーに浸って自分がどうこうなるのは個人の自由だが、戦略性もなくそれを人に押し付ける資格はない。「善意の殺戮者」ほどタチの悪い存在はいないことには誰しも同意するのだが、それが生まれるメカニズムについては、コミュニケーションへの断念と合わせてあまり理解されていないのは恐ろしいことである。


まあそれはさておき、以下に「『調和』と『地雷』」の草稿を載せる。


<草稿>
多様な価値観の存在という現実があり、しかもそれが不可逆である以上、「調和」というものの中身を曖昧なままにしたままそれが重要だと言い続ければ、「空気」が支配権を握り続け、「周りは地雷だらけ」という状況は永遠に変わらないどころかむしろ悪化していくだろう。


ここで重要なのは、たとえば「昔は調和していたように見えるかもしれないけど、自分の考えと周囲の意見がかみ合わないこともあったし、その時自分の意見を抑えていただけだ」といった「昔も~」的な反論が的外れであるということだ。なぜなら、そういった物言いは自分の意見を主張するか否かという単なる個人(主義)レベルでしか問題を考えておらず、社会状況自体が当時とは全く変化していることに全く無頓着であるからだ。


イデオロギーの凋落」「たこ壺化」などと言われるように、今日では共有可能な前提が消滅ないしは極端に少なくなっている(※)。それゆえ自分を抑えるとかいう以前に、そもそも「調和」を乱さずに、つまり相手の価値観に抵触せずにコミュニケーションすること自体が困難になってきているのだ。


ここまで言えばわかると思うが、もし重視されている「調和」なるものが他人(あるいは周囲)の価値観に抵触しないことを指すのなら、それは価値観の多様化と共存することはおよそ困難である。相手と前提が違う以上、コミュニケーションをしようとすれば、エゴの問題や、悪気がある無いということではなく、抵触せざるをえないのだ。そのような状況的必然性にもかかわらず


コミュニケーション方法、より正確に言えばそれを縛るディシプリンが、実態と乖離しているんじゃないか?もっと言えば、思想・言論の自由(個人主義)と



いわゆる「ホンネとタテマエ」がもはや限界にきている。

凄惨な宗教戦争などを土台にした、価値観の衝突が生まれ「ざるをえない」環境ゆえに生み出されたものである。

他者と理解し合うためのツールを提示しているんかい。

逃げ場がない小学生や中学生…「地雷」。大学生の自由度

こうなってしまうと、そんなものが嘘っぱちでクソ喰らえだとむしろ理解できる人間が生き残るという


それは何のための基準なわけ?


それによって「調和」という規範が実態からますます乖離していけば、その規範に全く価値を置かず極端な方向に走る人間が増え、ますます


ここで真に恐るべきは、最初は「みんな仲良くしようよ」という善意だったかもしれないが、それが結果として生きにくさとカタストロフの土壌を用意しているという逆説に、いい加減気付くべき。いや正確には、「仲良くする」とか「調和」とは何なのか?この価値観の多様化した社会においてそれはどのようなものでなければならないのか?


「こうあるべきだ」という道徳(個人の願望)ではなく、「このようになるのでこう動かさなければならない」という実態に基づいて帰趨を見据えた思考をする、少なくともしようとしなければ、もはや決して立ちゆかないんだという困難さをまず理解することだ。


といったことを考えてくると、ファジーな共感なんて言葉を持ち出すなんて考えられないでしょう。今日的日本という土壌を見れば、いくら話者が「違っても本来わかり合えるはずだから」という意図で称揚していたとしても、空気を強化して終わりだよ。



社会が豊かになって「幸福」が多様化したり、郊外化による伝統的共同代の解体といったことが原因とされる。結婚、セクシャリティ。郊外の1000坪の土地、プラズマテレビ、14型、環境管理型。