「清貧」が大事だとか何とか言われていたのは2010年代だったと記憶しているが、最近では全くそのような言説は見かけなくなった。まあコロナ禍や戦争に伴うインフレ、円安の進展、コメ不足などでどんどん生活が逼迫してきている状況でこんなことを言おうものなら、贅沢が日常化しているブルジョワの戯言として袋叩きに遭うのが目に見えているので、当然の変化ではあるし、逆に言えば、「清貧」などという言説は所詮その程度の情緒的なものに過ぎなかったとも言えるだろう(おそらくそういう人々は、映画一回の視聴1500円が一日の食費に当たるのでサブスクでいいやとか、本一冊買うと今は1000円超えるのでYouTube動画で解説を見るだけにする、といった金銭感覚・行動原理もおよそ理解できないのではないだろうか)。
というか、清「貧」という表現自体、それによって負担感が生じるのであって(まあ言ってる側はそういう感覚なのだろうが)、その言説で人を動かしたいと思うなら、こうすれば負担が減る、楽になる、メリットがある、といった打ち出しをなぜしないのか不思議である。
例えば冒頭に挙げた動画は減量飯であるが、これによって食費もかなり抑えることができるし、準備も楽だしフライパンなども使う必要がなく洗い物も少ない(このスタイルだと出汁が十分に染みるので、米自体の質にそれほどこだわる必要がないのもご時世的に大きなメリットだ)。つまり、料理の負担が減る・食費も減る・健康的という三方良しのものであり、可処分所得にそこまで余裕のない10代・20代には大変有用だし、(そこまで)無理をせず減量して健康的になれるという意味では、40代・50代にも刺さるものと言える(健康的になれば活動範囲が広がったり、医療費の抑制にもつながる)。
もちろん、いかにメリットだらけの食事だからと言っても、毎日これを食べていては飽きてしまうことは明白だ。よって、5合分作って3日はこれを食い、4日目は自分の食べたいものを食べ、5~7日はまた沼やマグマに回す、といったようにすればよいだろう(もちろん3日+3日のスケジュールで消化し、最終日に好きなものを食べるのもありだろう)。
こういったものを一例として、生活を楽にする知恵を早いうちから共有しておくことこそ(かつての「楠公飯」じゃないけど、それこそ学校の家庭科でもやったらええんやないの?)、「清貧」などという上から目線の苦行を奨励するより、よほど有益だと思う次第である。