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疑り深いヤツになっちゃったのは~週刊誌のせいじゃないお前のせいでしょ~♪でも、真実を知ることが、全てじゃな~い♪

「バチャ豚」、「自由意思」、ストア派:あるいはVtuberの「カジュアルな宗教性」について

 

 

「論争のフリーレン」という出オチのようなサムネの動画を再生してみたら、幸福派のアウラに対するヤン&オーベルシュタインという銀英伝屈指の理論派コンビの共闘がおもしろく、声マネも結構それらしいし、何より「わりと二人が言いそうなこと」を喋っているということで、なかなかに楽しませてもらった(・∀・)

 

なお、動画のコメントにもあるが、ここで述べられているテーマは、Vtuberに耽溺する人々=「バチャ豚」に限らず、趣味・快楽に没頭する行為すべてに当てはまることと言える。要は程度問題で、それが適度なら生きがいになるし、過剰になれば嗜癖と化して身を滅ぼしかねないという話である。

 

重要なのは、「自由意思」に関する疑義が動画内できちんと述べられていることだろう。これは検索アルゴリズムの話などで今では割と知られるようになってきているが、端的に言うと、自分の意思で選び取ったと感じているものは、しばしば周到にお膳立てされたものであり、例えば純粋に100個ありえるような選択肢の中で、あらかじめ「あなたの好きそうなものはこのうちの4つ」と提示され「そうそうこれだよこれ!」と選ぶのは、果たしてどこまでが「自由」意思なのかという問題である(なお、動画内で語られているのはより認知科学的な話で、「人間は先に行動をした後、意識でそれを正当化する」という仕方で意思を感得している旨が述べられている)。

 

もっと言えば、「マックの固い椅子」や「くねくね道路(cf.ゾーン30)」が典型のように、環境を整備することで、使用者が自由意思を毀損されたと思うことなく設計者の意図通りに対象を動かせるという仕組みは、すでに20世紀後半から意識され始めていた(フーコードゥルーズが提唱した「生ー権力」などを参照。ちなみにこれがオーウェルの描く『1984』のビッグ・ブラザー的支配と、AIが普及していく現代社会での支配方法の違いである)。

 

かかる時代においては、「自由意思」なるものを過度に信用しないようにしつつ、ゆえに自己の噴出する欲望とそこへの没入とは慎重に距離を取って、いわば「欲求という嵐に振り回されない心身の平静」に留意しながら過ごすことが重要になってくると言えるだろう(というと大げさだが、実はこれ依存症の構造及びその対処法と全く同じである。まあ現代では何が問題なのかと言えば、認知科学マーケティング手法が発達した結果、マネタイズのために依存・耽溺を促進するようなメッセージが社会のそこここで暗に出されていることにあるのだが・・・ちなみにそう考えると、「情報のフォアグラ」などと呼ばれる今の時代だからこそ、まさにストア派のような主張が2000年の時を経て重要な意味を持ってくるように思われる)。

 

話を戻そう。
この動画が一般的な没入の幸福感と嗜癖の危険に関するものでありながら、それではなぜ「バチャ豚」なるものがテーマとして取り上げているのかと考えてみるに、それが実在(形而下)と非実在(形而上)のあわいにあり、かつ対象への没入がそのまま信仰や寄進行為=宗教的なものになりうるという特徴にあるのではないか。

 

もう少し正確に言うと、Vtuberは現行の社会規範に対する体系的オルタナティブ(教義)を提示する訳ではないし、またそれが集団的な脱社会行為(入信や出家)を促すわけでもない。しかしながら、そういった「カジュアルさ」ゆえにこそ参入・没入の障壁が低く、また信仰ほどには社会との隔絶を感じさせないがために「一線」を踏み越えていることが認知しにくく、ゆえに引き返すタイミングを見失っているうちに、コンコルド効果なども相まって「今さらやめられない」と依存症的な耽溺からの脱却が難しい、といったになるだろうか(繰り返しになるが、これは他にも応用できる話で、「アイドルとその追っかけ」はまさにその典型だろう)。

 

ちなみに、今述べたことを観察するにあたって最も参考になるものとして、にじさんじ所属のVtuberでびでび・でびるがファンからのマシュマロに向けた言葉を取り上げたい(なお、「でびでび・でびるが視聴者を擬似宗教的な言説でたばかろうとしている」みたいな話とは全く逆なので悪しからず)。やり取りの中に出てくる「崇拝」や「悪魔に囁かれる」といったタームは、でびでび・でびるがロールプレイの名手であり、ファンもそれに乗っかっているがゆえのコミュニケーションだが、例えば

「でび様のことが大大大好きです。しかし経済的な理由からメンバーシップに入っておらずスパチャも送ったことがありません。そんな私は契約者失格でしょうか?😭」(ファンからのマシュマロ)

「ぼくをみただけで契約者だぞ。お前からは崇拝も感じている。お前がしたいならできるように待っているからその時しろ」(でび様の返信)

のようなやり取りは、そのまま厳格な戒律の順守を訴えたパリサイ派に糾弾される(もしくはそれに怯える)人々と、戒律からの解放と愛による信仰を訴えたイエスにも思えてくる(大げさ)。

 

あるいは

「でびちゃんの同担拒否ってどう思いますか?」

「崇拝の形は自由だねえ!しかし、ぼくはそれを他人に向けろとは囁いてないぞ。ぼくを崇拝するのならば、他の悪魔に囁かれぬように」

のような返信は、相談者の信仰心(ロイヤリティ)に慮りながら、しかし信仰の多様性(言い換えれば「他者の尊重」)が重要であることを同時に諭してもいると言えるだろう。

 

これらのマシュマロと返信は、RPの中で宗教風のタームを使っているがゆえにVtuberと視聴者の宗教的関係性を浮き彫りにするが、賢明なでびでび・でびるはそのことを深く理解した上で、視聴者のロイヤリティを尊重しつつRPを崩さない範囲で、その過度な耽溺や暴走を嗜める発言をしていると読めるだろう(注)。

 

とはいえ、繰り返しになるが、こういった形で愛着やその表現というものが、宗教的性質を帯びているとともに、それが割とカジュアルだからこそ深みにはまり込んでいることに気付きにくく、そのうちに感情が執着・脅迫と化して対象への耽溺を止められなくなる、という構造をマシュマロ主の言動の中に見出すことができるのではないだろうか(もちろん、そのような心情をこういう形で冷静に対象化してでびでび・でびるに向けることができている以上、嗜癖のようなレベルには遠い事例だと思われるが)。

 

現代の人間というものは、大きな物語に没入することが無くなっていき(難しくなっていき)、さらに共同体の解体も急速に進む以上、こういった形でのカジュアルな没入がなくなることはないだろうし、むしろ加速していくと考えられる(これはAIの「進化」と人間の「劣化」という言葉でも度々触れている)。

 

そのような中で、改めて現代の仕組みにおける「自由意思」とその限界、駆動される欲望から適切に距離を取る身の処し方、没入・耽溺する人々の生態学といったものを考える上で、非常に興味深い動画だったと思った次第。

 

(注)

でびでび・でびるの優れた言語化能力についてはもう何度も触れているが、それにしても「難しいことを易しく適切に言い換える能力」「他者(性)を尊重した表現」「その上でRPは崩さない」の3つをこれだけ高いレベルで実行しているあたり、改めてその特異性に目を見張らざるをえない。近い性質を持ったライバーとしては、同じくにじさんじのルンルン、あるいはもう引退したが「ななしいんく」の大浦るかこなどが想起されるのだが、前者はアウトサイダーとして生きてきた・生きざるをえなかったがゆえに社会やそこで生きる人々を対象化・構造化して深く理解せざるをえなかったという経験があることは容易に予測できる。

また大浦るかこもオウルナイト(ラジオ配信)などで断片的に語っている程度ではあるが、割とアバンギャルドな家庭で育てられ、自身も体調面などから学校に行けなかったり保健室での登校が続いた経験から、いわば「正規ルート」的なるものの中で生きる人たちの生態・メンタリティを俯瞰的・構造的に見る習慣がついたものだろうと考えることができる。

しかし、ことでびでび・でびるだけは、あまりにRPが巧みであるがゆえに、そういった「背景」が全くわからず、どのようにして今のようなスタンス・能力を身に着けるにいたったのか、実に興味深いところである。