「かりん」ネタをアルクェイドで締めるという案を携帯にメモって先に進み、再び石畳のところに出た。

足元を確かめながら歩いていると、突然脳内でドラクエ2の「この道、わが旅」の歌が流れ始める。2ならむしろ「遥かなる旅路」が印象に残っているのに。仮にアニメで考えても、「夢を信じて」が出てくるところだ(何せ今もってよく聞く曲だしね)。そんな意外さがおもしろくて何度も反芻していると、眼前に広がるのは陽に照らされた黄金の水面。誘われるようにまだ見ぬ地へと踏み出す。
しばらく先へ進むと、木が侵食して足場がなくなっている。さて、人は水の中には入れないというのが習わしだ。どうしようか……いや、今の俺にシステムなど関係ねえ!そう思ってズボンを下ろし、もといまくって靴を脱ぎ、いかなるキャラクターもなしえなかった一歩を踏み出したが、…大事なことを忘れていた。今はもう12月だったのだ。冬の水は容赦なく突き刺さってくる。「この痛み、アンナの痛み」などと急に老け込んだ気分で歩みを進めると、予想以上にあっさりと膝まで侵食され断念。
「船が無ければ泳いで渡ればいいじゃない」というのはマリーの口癖だったが、残念ながら覆面マントにパンツ一枚でない俺にその選択は現実的ではない(彼女にはもっと相手の状況と格好を見て発言してほしいものだ)。まあ息子か娘ができたら考えてもいいけどさ。
河原に戻って石の上を素足で歩いてみれば、尖った石が柔らかくなった足に食い込んでバリアー級の痛み。なるほど、システムに隷従したら痛みによって実存を確認する、か…隷従を拒む心が自傷による確認作業を要求するわけだ、ふむ!
足を乾かすため座って対岸を見やる。そこにはさっきまで万難を排してでも辿り着こうとした境地がある。「万難を排して」だと?俺がやったのは少しだけ向こう見ずな行動にすぎない。そんなものはこちらに帰ることを前提とした、つまり予定調和の内にあるのだ。思いつきと勢いだけで乗り越えられるほどシステムは甘くないが、まして遊び半分では尚更だ。

あ~あ、こんな事ならヘンリー卿には船の方をもらっておくべきだったかな。いや違う、違うぞ。船をもらったとしても、それはシステムに従属しただけのことだ。それなら娘をもらう方がはるかにマシな選択だ。いや、本当にそうか?いったい「家族という消費システム」はどこへ行った。どちらを手に入れたとしてもシステムに組み込まれることに変わりはない。どこを向いてもシステム、システム…
そこに一なる根源を見出そうとする人たちがいる。ある人はそれを「神」と呼び、ある人は「因果律」と呼び、またある人は巨大なコンピューターを仮構する。しかし実際には、そのようにしてあらゆるものに法則性を見出す、あるいはあらゆるものが何らかの法則によって成り立っていると考える精神性自体が、人間の思考様式というシステムへの隷従を土台として成立しているのだ。そのような観点に立てば、当然この記事もまた日本語であるとかブログであるといったシステムの枠組みの中で、すなわちそれへの隷従の上に成り立っていることに気付く。そうやって色々なシステムの制約、少し違う言い方をすれば「環境」の中で生きる我々にとって、一体どこまでが強制されたものでどこまでが自由意思の産物なのだろうか?
まあそんな問いはいくらでもできるわけだが、とりあえず確かなのは、俺が何を考えようとも時間は、世界は、歴史は流れ続けるということ、そして俺にはトランキライザーが必要だということぐらいだろう。
そんな後付けの思索にふけっているうちに、足は乾いた。いやもしかすると、足などそもそも濡れていなかったのかもしれない。大体において、炬燵に入ってブログを書いているのに、足が水で濡れるはずがない。とするなら、そもそも俺の前にある川は本当の川ではなく、何かの象徴ではないか?例えば此岸と彼岸を隔てるもの、というような…
自然物を認識の門であるかのように見なす傲慢さを振りまきながら、今きた道を戻る。すると陸橋の上へと続く道があるのに気付いた。まだ見ぬ地への冷めやらぬ情熱は、そのまま引き返すことを拒絶する。なるほど下にいたら見えなかったものが、上から見ればまた変わるかもしれない。そう思い、俺は上方を目指した……