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疑り深いヤツになっちゃったのは~週刊誌のせいじゃないお前のせいでしょ~♪でも、真実を知ることが、全てじゃな~い♪

生類憐みの令とクマ駆除へのクレームの類似性

 

 

 

自分がまだ高校生だった90年代、徳川綱吉の生類憐みの令は社会的混乱を生んだいわゆる「悪法」として認識されていたように思える。

 

しかし現在では、戦国の気風を残す武断政治から文治政治への転換点を象徴し、また現代的な動物愛護の観点から一種「先進的」法律だったとみなされる向きが強くなっているようだ。

 

もちろん、歴史を評価する際に現在の価値基準が影響を与えるのは当然のことだし、また自力救済で生き馬の目を抜くような戦国(というか中世)的風潮が家綱の代から変化を始め、17世紀末の同法令施行はそれを推し進め、18世紀始めには『葉隠』的な武士的ないかめしいワードを用いつつも、実態としてはサラリーマン処世術の如きものが世に問われるようになった、というのは妥当な見方であるように思われる。

 

しかしながら、今回紹介した動画が主に高校生を対象とした日本史学習チャンネルという特性はあるにしても(まあコメントを見る限り社会人が学びなおしとして活用しているケースも少なくないようだ)、その法令を評価する際に、それが社会的にどのようなハレーションを起こしたのかを考慮したものがあまりにも少ないことに、私は驚きを禁じ得なかった。

 

これは別に動画の造りが悪いとは全く言えない。というのも、動画の内容としては生類憐みの令を称揚するものではないし、次代の将軍の時にはすぐに廃止されたことも言及されており、それが少なくとも当時の世からは忌避される性質を持ったものだったことは容易に想像できるからだ。

 

このような当時の社会(実社会との関係性)という視点が欠落した評価の偏りを見る時、私はこのような認知の仕方がクマ駆除へのクレームと相似形のものだと感じる。

 

もちろん、単に遠い時代の法令に関して感想を持つのと、現代のアクチュアルな現象について実際に行動を起こすことを全くのイコールだと言うつもりはない。しかし、その根底にある世界認識の仕方という点では強い類似性があるように思えるのである。

 

私はクマ駆除について批判的な記事を書いたことがあるが、とはいえそれに批判的な評価をする人について、例えば人間の経済活動や自然破壊といった側面を考慮すること自体に反対するつもりはない(とはいえ、例えば反対の多い大規模開発の反動で獣害が生じたというような事態ならまだしも、すでに存在しているコミュニティの安全が脅かされている状況で、人間が動物の領域を奪っているとか、自然破壊云々を持ち出すのは筋が通らないのではないか)。

 

また、クマの駆除(動物の殺害)そのものについて、心が痛むというメンタリティを否定するつもりもない(もちろん、遠く離れているがゆえの安全性により、それを愛玩動物的なものとしてしか評価できない、という視点の偏りに無批判なのは極めて問題だと思うが)。

 

しかし問題は、そういった心情が惹起した時に、どういう視点でそれを評価し、行動するかなのだ。すなわち、自分がクマの駆除に心を痛めた時に、その心情を一つの要素としてカッコに入れつつ、同時にその現象がどのような背景で生じているのか、またその獣害の影響がどのようなものであるかを確認することであろう。そうすると、先ほど( )つきで述べたような留意すべき事項や、また自分自身の評価のバイアスに思い至る機会があるはずだ(そしてそれをクレームの形ではなく、自然との共生方法に関する提案として世に問うなど、様々できることはある)。

 

にもかかわらず、こういった要素を考慮せずに、自らの感情が引き起こされるやそれを発露し、それで真に困っている人たちをさらに苦しめている。そのような稚拙で社会性(メタ認知)を欠いた行動だからこそ、強く批判されているのだと言えるだろう。

 

クマの駆除に対するクレームは、一部のおかしな連中の暴走のように取り沙汰されているし、少なくとも現時点ではそう外れてはいないだろう。しかしながら、前述のように本動画のコメント欄を見るにつけ、生類憐みの令を評価する際に「当時の社会との関係性」という視点が全く欠落しているものばかりが目立つことを踏まえると、どうもその予備軍はこの社会に相当数いるのではないか(全く他人事ではない)、と思った次第であるし、逆にそういった社会的視点を欠いた大人たちを世に大量に解き放たないためにも、学校教育の中で反面教師的にこういった事例を教えるのはもちろん(単に「自然破壊は良くない事です」などと教えても、むしろ愚者を量産することにしかならない)、社会としてはこういったクレーマーに対する対処は共有されていく必要があるだろう。