なぜか突然古い曲を聞きたくなることがあるが、そのうちの一つが、「果てしなく青いこの空の下で」という作品のメインテーマだ。
この作品の発売はちょうど2000年なので、もう25年も前なのかと驚きを禁じ得ないが、その透明な世界観は今でも印象に残っている。
「透明」というと、キービジュアルも含めて「青春」「自然」といった話を想像されるかもしれないし、それは必ずしも間違っていないが、この作品の透明さは、そのドラマツルギーにも関わっている。
すなわち、青春のただ中にいる主人公たちは、田舎を開発して巨利を得ようとする大人たちの策動に巻き込まれていき、そこに民俗学的な、あるいは超常的な要素が関わってくるのだが、しかしそういった異形たちは、決してこちらの都合に沿っては動いてなどくれない。すなわち、たまさか自分たちと敵対する存在たちがそれらの則を超えたことで殺されるという展開は確かにあるのだが、しかしそれはこちらの「熱意」とか「働きかけ」といった要素とは関係がない。そしてさらに言えば、主要人物のバッドエンドにも見られるように、目先の敵対者たちが仮に軒並みこの世ならぬ存在となったとしても、そのグループの者たちが新たに共同体の元へと表れ、絶望したヒロインが死を選ぶという展開も存在する。
これが物語創作上の都合なのか、はたまた作者の世界理解が強く反映されているのかについては詳らかには知らない。しかしながら、例えばあの戦争が終わった後に広島付近を直撃した枕崎台風をもって「神風など人間の都合による妄想に過ぎない」と言ってみせた『この世界の片隅に』の描写と同じように、自然またはこの世界全体は人間の願望・都合というのとは全く無関連に存在・運行しているのだ、という透徹した認識がその根底にあるように思えるのだ(まあ近代というのはその人間の外部=自然界を科学技術などによって次々とコントロール化に置くことで社会を発展させてきた訳だから、自然が人間の都合の元に動いていると妄想するのも理解できないことではないが)。
そういった意味において、この作品の透明さは、美しさであると同時に、残酷さでもあると言えるのではないか(これは以前述べた「一切皆苦」の話とも繋がる。というのも、世界はそうであるにもかかわらず、我々は自らの理解と安心のために、それが一定の因果律で動いているはずだ、と思い込んで生活しているからである)。
(例えば「反魂」など)民俗学や錬金術などに興味を持つ入口としても有用な作品の一つだが、もう少し踏み込めば、今述べたようなより根源的世界理解の作法そのものにもつながるテーマを見出せる作品なのではないか、と述べつつこの稿を終えたい。