「じゃがいもを生で食べるとどうしてダメなのか?」というのを疑問に思ったりそれを質問したりするのは、烈海王ならずとも一向に構わない話だ。
しかし、これを大の大人がその実行に固執し始めると話は別で、しかもAIが理由付けをして、さらにはオーダーに応じて簡潔に説明しようとしても聞き入れようとしないのなら、もはやそれはどうにもできない事案である(にしても、相変わらずこの野良猫はフリーダムの化身だなあw)。
これはイギリスの「馬を水飲み場に連れていくことはできるが、そこで水を飲ませることはできない」という(教育に関するものだが)諺にも通じるが、どういうわけか知識を蓄えた人間ほど頭でっかちにこういう事態を想定しないのは不思議なことである(まあそのような知識の習得・運用を善として生きてきた期間が長いから、「共通言語」としてのその運用にどうしても信頼を置いてしまいがちなのだろう)。
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ここで東浩紀が言っていることもそれに通ずる部分があり、ジョナサン・ハイトが述べた人間を動かす時の「情動で動く像と理屈で動く乗り手」のイメージなどもこれにつながるが、ワンクリック・ツークリックで一応の情報は得られるのにそれすらしない怠惰な連中や、あるいは自分の見たいものしか見ない疑似科学や陰謀論の訴求力を考えれば、思い半ばに過ぎるというものだろう。
まあだからこそ、自分は社会レベルで必要な発想は、なるだけ残酷さを避けるという意味でのリベラリズムと同時に、人間を理屈ではなく生理的にコントロールして逸脱を防ぐ仕組み=リバタリアンパターナリズムが重要だと考えていたりする(交通事故の悲惨さを映像で訴えるのもいいが、それは「自分は自己を起こさない」という発想のアンポンタンには意味をなさない。よって、道徳心に過剰な期待はせず、道路の造りを工夫し感覚的にそもそもスピードを出しにくくする方が、結果的に社会が上手く回りますよ、という話)。
ちなみにここで「いつもの話」をしておくと、これがAIの「進化」と人間の「劣化」という構造を必然的に招く。というのは、価値観が多様化して共通前提が減った状況では、「何でこれがわからないの?」が多発することになる。そうしてコミュニケーションの難易度が上昇した社会では、それを成立させることのコストが高くなる上に、それによるゲインも得にくくなる(努力してもせいぜい表面的に軋轢の起きないやり取りができる程度)ため、対人よりAIとのコミュニケーションに実りを感じる人の割合が増え、そこまでいかなくともAIとやり取りする時間が増加していくことになる。そしてその結果、こちらの投げかけや愚痴に根気よく応対してくれるAIとのコミュニケーションに慣れ、対人との複雑なやり取りを処理する能力も気力も減退していき、ますますAIの方へと傾倒していく、ということである。
別にAIが人間を支配などしようしなくとも、多くの人間は勝手にそこへ依存し、自らその「奴隷」となっていくであろうし、そうでない人間が少数残ったとしても、少なくとも民主主義社会の体制が続く以上は、前者のような大勢によって後者も大きな影響を受けざるえないだろう、と述べつつこの稿を終えたい。